伝記
ギー・ド・ショーリアックは、1298年(1300年ごろともいわれる)に生まれ、1368年7月25日に没したフランスの外科医である。1363年に7巻からなる外科書『大外科書』を著し、この書は各国語に翻訳され、中世のヨーロッパの医師に広く読まれた。
ロゼール県のショーリャックで、つつましい家に生まれた。若いころの記録は乏しく、伝説が生まれている。それによると、バロニー・ド・メルクールの貴族の娘が足を折り、骨が治らなかった。魔女の助言で若いギーが呼ばれ、娘をみごとに歩けるまで治したため、城の夫人が彼の学費を出したという。トゥールーズで学んだのち、14世紀の医学の中心であったモンペリエで医学を学んだ。モンペリエでの師はレーモン・ド・モリエールで、1325年ごろに医学と外科学の資格を得た。そののちボローニャでニコラ・ベルトゥッチョのもとで解剖学と外科の技術を学び、パリにも滞在して解剖学の知識を深めた。その後は各地を旅したらしく、1330年ごろに学業を終えてから、1342年に文書に名が現れるまでの足どりは、はっきりしない。マンドやリヨンで外科医を務めたとする説もあり、1344年ごろにはリヨンのサン=ジュスト教会の参事会員となり、修道院の医師として病室で外科を行うことが認められた。
1348年、アヴィニョンでペストが流行した。多くの医師が町を逃れたが、ギーは町にとどまり、患者を治療して症状を記録した。腺ペストと肺ペストの2つの症状を区別し、教皇クレメンス6世に、部屋を連続して火で暖めることや、訪問者に会わないことを助言した。感染源を特定することはできなかったが、伝染性であることは認識しており、空気の浄化、瀉血、健康的な食事を治療法として勧めた。疫病の原因はユダヤ人が井戸に毒を入れたからだという風説とも戦った。クレメンス6世は、彼にペスト患者の公開解剖を許したという。患者と接し続けた彼は自らもペストにかかり、体に現れた腫れ物を切開して治したと伝えられる。
こうして医術の評判が高まり、教皇領のあったアヴィニョンで、クレメンス6世、インノケンティウス6世、ウルバヌス5世の3代にわたって教皇の侍医を務めた。1353年にはランスの参事会員となったが、1359年にその座を離れ、サン=ジュストの参事会長となった。1363年に完成した『大外科書』は、解剖学、瀉血、焼灼などの中世の技術を述べ、絆創膏の使用や、治癒の過程で膿が生じることにも触れ、挿管、気管切開、縫合などの手法も記している。教皇の侍医であったため、ギリシャ語の原典からニッコロ・ダ・レッジョが訳したばかりのガレノスの著書などを読むことができ、先人や同時代人の医書を引用した。この書は人気を集め、英語、フランス語、オランダ語、イタリア語、プロヴァンス語に訳され、彼はモンペリエの外科学校としての地位も高めた。「解剖学を知らない外科医は、盲人が材木を彫刻するようなものである」と書いたが、ガレノスの影響で、その解剖学的な記述は必ずしも正しくなかった。1367年にはメンドの参事会員となり、1368年に、アヴィニョンとリヨンを結ぶ道の途上で没して、サン=ジュストの司祭たちの墓地に葬られた。
同じ年に亡くなった人物
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