伝記
カジミェシュ3世は、一三一〇年四月三十日にクヤヴィのコヴァルで生まれ、一三七〇年十一月五日に没した、ポーランド王である。在位は一三三三年から一三七〇年に及び、大王とも呼ばれる。ヴワディスワフ1世(短身王)の三男で、母はヴィエルコポルスカ公ボレスワフの娘ヤドヴィガである。ピャスト朝最後のポーランド王でもある。現在のポーランドの五十ズウォティ紙幣の表面には、彼の肖像が採用されている。父は小ポーランドとクヤヴィの大半を支配する有力な諸侯で、一三二〇年一月にクラクフで戴冠した。一三二五年十月には、カジミェシュがリトアニア大公ゲディミナスの娘アルドナと結婚した。ドイツ騎士団に対抗する同盟を求めた父が、選んだ相手であった。
若い頃、彼は一三二九年か一三三〇年頃に、外交使節としてハンガリーのブダの宮廷に滞在した。そこで貴族の娘クラーラ・ザーハと関係を持ったとされ、娘の父は復讐のために王宮の宴に乱入して王夫妻に切りつけ、妹である王妃の指を切り落としたが、その場で殺され、一族は厳しい弾圧を受けたという。この頃、ポーランドはボヘミア王と戦い、ドイツ騎士団にクヤヴィを奪われ、ドブジン地方はボヘミア王に占領されていた。一三三三年、父の死により王位を継ぐと、国は分裂状態から統一されて比較的安定していたが、神聖ローマ帝国やドイツ騎士団、ボヘミアなどの外圧にさらされていた。
カジミェシュ3世は、武力ではなく外交で解決しようとした。一三三五年には、ボヘミアと交渉し、大金の支払いと引き換えに和睦した。同年、ヴィシェグラードで、ボヘミア王ヨハンと、ハンガリー王カーロイ・ローベルトと会談し、多額の補償金と引き換えに、ヨハンに王位請求権を放棄させた。一三四三年には、教皇クレメンス6世の仲介でドイツ騎士団と交渉し、クヤヴィとドブジンを得る一方、グダンスクとポモジェを割譲して和解した。神聖ローマ皇帝カール4世とは、一時戦争になったが、シレジアの帰属などの国境問題を解決して和睦に持ち込んだ。孫娘のエリーザベトは、のちにカール4世の四番目の妃になっている。
その後、東方に進出し、ハールィチ・ヴォルィーニ戦争を起こして、ハールィチ公国とルブフを一三四〇年から一三五二年にかけて支配下に収め、領土を倍増させた。一三六六年にはヴォルィーニとポドリアも併合した。内政では、司法制度を整えて貴族の権力の濫用を抑え、ドイツ法を広く普及させた。農民を手厚く保護し、西ヨーロッパで迫害されたユダヤ人を保護し、国外からの移民による植民も奨励したため、ポーランドは商業的にも発展した。一三四七年には王国の基本法を制定し、一三六四年にはクラクフに、国内初の大学であるヤギェウォ大学(当時はクラクフ大学)を創設した。そのため、後世には、木造のポーランドに現れ、煉瓦のポーランドを残して去ったと称えられた。
私生活では、最初の妻アルドナが一三三九年に亡くなったのち、一三四一年にヘッセン方伯の娘アーデルハイトと再婚したが、すぐに別居した。その後、ボヘミア人のクリスティナと重婚し、教皇の警告を無視して同棲を続けたが、その関係は一三六三年か一三六四年に終わった。一三六五年頃には、シロンスク地方の公の娘ヤドヴィガを四人目の妻に迎え、三人の娘をもうけた。男子はなく、一三七〇年に狩猟中に落馬して亡くなったのちは、甥のハンガリー王ラヨシュ1世が王位を継ぎ、ピャスト朝の支配は終わった。
同じ年に亡くなった人物
- ウルバヌス5世 (ローマ教皇) (1370年没)
- ルドルフ2世 (ザクセン選帝侯) (1370年没)
- グアリエント・ディ・アルポ (1370年)
- トゴン・テムル (1370年没)
- エウフェミア・アヴ・スヴェーリエ (1370年没)
同じ地域に関係する人物
- マチェイ・スウォムチンスキー (1998年没)
- ピョトル・スカルガ (1612年没)
- バルバラ・ラジヴィウヴナ (1551年没)
- スタニスワフ・レム (2006年没)
- マリア・マリツカ (1992年没)