伝記
ウルバヌス5世は、本名をギヨーム・ド・グリモアールといい、一三一〇年に生まれ、一三七〇年十二月十九日に没した、アヴィニョン捕囚の時期のローマ教皇である。在位は一三六二年九月二十八日から一三七〇年に及ぶ。ベネディクト会の修道士で、アヴィニョンの教皇のなかで唯一、福者に列せられた。フランス出身の貴族で、ロゼール県にあたるマンド近郊のグリザック城に生まれた。父は同名のグリザック領主、母はアンフェリーズ・ド・モンフェランで、六人のきょうだいがあり、弟のアンジェは、のちに教皇となった彼によって一三六六年に枢機卿に任命された。
十二歳で剃髪を受け、モンペリエ大学で学び、のちにトゥールーズ大学で市民法を学んだ。一三二七年にベネディクト会に入り、マルセイユのサン・ヴィクトル修道院で修練を積んで、一三三四年にシラックで司祭に叙階された。モンペリエとトゥールーズで法を学び、一三四二年十月三十一日に教会法の博士の学位を得た。名高い教会法学者としてモンペリエ、パリ、アヴィニョンで教えたという。教皇クレメンス6世からオーセール教区の修道院長に任命され、一三五二年二月十三日にはサン・ジェルマン修道院長に昇った。修道院では規律と財政の改革に着手したが、司教や大司教が修道士たちに重い負担を求め、新たな取り立てを課そうとして、グリモアールが抵抗すると、大司教が暴力を振るったとされる。それでも彼は屈しなかった。一三五九年には町と修道院がイングランド軍に占領され、重い賦課を受けた。
一三五二年の夏、クレメンス6世は彼をイタリアの任務に呼んだ。北イタリアはミラノのヴィスコンティ家の野心で混乱しており、教皇は同家に教皇領のボローニャを教皇代理として預ける取り決めを結んでいた。グリモアールは、教皇使節として現地に赴き、ボローニャを不法占拠者から受け取って、大司教ジョヴァンニ・ヴィスコンティに教皇代理として引き渡し、同年十月二日にこれをやり遂げた。経費として一日に金貨八フィオリーノが与えられたが、同行者は四フィオリーノだけだった。ミラノでは、失効間近だったシチリア王夫妻との条約の更新も、大司教に取り付けたという。一三五四年にも、ローマでの教皇庁財務院の用件と、サン・ピエトロ大聖堂の乱れを正すために派遣された。一三六一年八月には、マルセイユのサン・ヴィクトル修道院長に選ばれたが、その後も教授を続けた。一三六〇年には、イタリアに派遣されていたアルボルノス枢機卿を助けるため、大司教の甥で後継者のベルナボ・ヴィスコンティとの交渉に当たった。
一三六二年に教皇に選ばれた後も、ベネディクト会の会則に従い、質素に暮らし続けた。そのため、豪奢な暮らしに慣れた聖職者たちとしばしば衝突した。彼は在位中、教会の改革を求め続け、教会や修道院の修復と建設も進めた。東西教会の再統一を目標にしたが、成功しなかった。百年戦争の時期で、フランスも次第に不穏になり、ローマへの帰還を求める声も強まるなか、一三六七年に教皇庁をローマへ移した。スウェーデンのビルギッタが彼を訪ねてきたのも、このローマ滞在の時期であった。しかし、ローマは予想以上に荒廃しており、アヴィニョンを懐かしんだ彼は、一三七〇年にアヴィニョンへ戻り、間もなく亡くなった。のちに福者に列せられた。
同じ年に亡くなった人物
- エウフェミア・アヴ・スヴェーリエ (1370年没)
- カジミェシュ3世 (ポーランド王) (1370年没)
- ジョヴァンニ・ダ・ミラノ (1370年)
- Taj al-Din al-Subki (1370年)
- トゴン・テムル (1370年没)
同じ地域に関係する人物
- クレメンス7世 (対立教皇) (1394年没)
- ゲルソニデス (1344年没)
- マージョリー・ノエル (2000年没)
- ウィム・ドイセンベルク (2005年没)
- ベネディクトゥス12世 (ローマ教皇) (1342年没)