伝記
ヴァルデマー4世は、1320年ごろに生まれ、1375年10月24日に没したデンマーク王で、1340年から在位した。クリストファ2世の末の息子で、「再興王」を意味するアッテルダークの異名で知られる。のちにカルマル同盟を成立させたマルグレーテの父でもある。
父クリストファ2世が敗れて世を去り、兄のエーリクとオットーもホルシュタイン側に捕らえられて死ぬと、ヴァルデマーは少年時代と青年時代の大半を、バイエルンの神聖ローマ皇帝ルートヴィヒ4世の宮廷で亡命者として過ごした。デンマークでは1332年から王のいない時代が続いたが、伯ゲルハルト3世がニールス・エベセンらに殺されると、1340年6月24日、エベセンの主導でヴィボーの集会において王に推された。同じ年にシュレースヴィヒ公エーリク2世の娘ヘルヴィヒと結婚し、父から受け継いだ領地と合わせてユトランドの約4分の1を握った。エベセンは同年11月にソンダーボー城の包囲で兄弟とともに殺された。
当時のデンマークは多額の債務を抱え、領土が担保として分割され、事実上の領土は極めて限られていた。ヴァルデマーは、まずヘルヴィヒの持参金で担保を買い戻し、北ユトランドの残りは農民からの税で払った。1344年には北フリースラントを手に入れ、南ユトランドの借金7千マルクの返済にあてたが、農民は絶え間ない金銭の要求に怒り始めた。つぎにシェラン島に目を向け、ロスキレ司教からコペンハーゲンの城と町を譲られて、コペンハーゲンから国を治めた最初のデンマーク王となった。城を奪い、買い取って、ホルシュタイン勢を追い出し、金が尽きるとカルンボーとスーボーの城を力ずくで奪った。エストニアを1万9千マルクでドイツ騎士団に売り、その資金で担保とされていた領土を買い戻した。1346年ごろにはリトアニアに対する十字軍を企てたが、教皇の許しを得ないままエルサレムへ巡礼に出て、聖墓の騎士に叙された。教皇クレメンス6世からは、許しを得なかったことをとがめられた。帰国後の1346年にホルシュタイン勢の本拠ヴォーディングボー城を奪い返し、年末までにシェラン島全体を支配した。ここを居城として拡張し、ガチョウの塔を建てた。1347年ごろにはドイツ人を追い出して、デンマークは再び一つの国になった。敵対者への残酷さで恐れられ、重い税は農民を苦しめた。
1349年には黒死病が到来し、多くの貴族がその犠牲となった。持ち主のいない土地が増えたことも、王領の拡大に役立った。急速な王権の強化は、スウェーデンやハンザ同盟など、バルト海周辺の勢力から強く警戒された。スウェーデン、ハンザ同盟、シュレースヴィヒ、ホルシュタイン、メクレンブルクが反デンマーク同盟を結ぶと、1370年、ヴァルデマーはハンザ同盟に特権を与えるという不利な条件で和睦した。これがシュトラールズントの和議である。ただし、この和議でデンマークが領土を失ったわけではなかった。
1375年、55歳で世を去った。息子がなかったため、二人の娘、インゲボーとマルグレーテのどちらかの息子が王位を継ぐことになったが、マルグレーテの巧みな政治手腕で、息子のオーロフが継承した。
同じ年に亡くなった人物
- ヨハン・ハインリヒ・フォン・ルクセンブルク (1375年没)
- イブン・アル=ハティーブ (1375年没)
- ジャウメ4世 (マヨルカ王) (1375年)
- Adityawarman (1375年)
- シュテファン2世 (バイエルン公) (1375年没)
同じ地域に関係する人物
- Hans Scherfig (1979年没)
- Kjell Rodian (2007年没)
- スヴェン2世 (デンマーク王) (1076年没)
- アスタ・ニールセン (1972年没)
- ゲルダ・ヴィーグナー (1940年没)