伝記
イブン・アル=ハティーブは、1313年11月に生まれ、1374年または1375年に没した、イベリア半島のナスル朝の政治家、歴史家、詩人である。医学や哲学にも通じた多才な人物で、リサーン・アッディーンとも呼ばれる。祖先は南アラビアのイエメン系のアラブ人で、8世紀にイベリア半島へ移り住んだ。グラナダ近郊のロハで生まれ、グラナダで学問を修めた。
1340年、父と兄がサラード川の戦いで戦死すると、かつての師イブン・ジャイヤーブのもとで書記官を務めた。師はユースフ1世の宰相であった。1349年にイブン・ジャイヤーブがペストで亡くなると、イブン・アル=ハティーブが後任の宰相となり、君主の官房の長として、アンダルスやマグリブの宮廷との外交にも当たった。ムハンマド5世の治世でも宰相を務めたが、1359年8月のクーデターでムハンマド5世が廃位されると、反乱者に投獄され、財産を没収された。まもなくマリーン朝のスルタンの介入で釈放されると、ムハンマド5世とともにモロッコへ亡命し、神秘主義と著作に打ち込んだ。この亡命中に、歴史家イブン・ハルドゥーンと出会った。1362年ごろ、ムハンマド5世がモロッコ側の助けで王位を取り戻すと、彼も復職し、宰相として政務の中心にあった。このころ、ペストについての論考を著し、病が接触によって伝わるという考えを論じた。
のちにイブン・ハルドゥーンが宮廷で孤立すると、イブン・アル=ハティーブはグラナダへの移住を取り計らい、ムハンマド5世とともに歓迎した。しかし、ハルドゥーンを快く思わない廷臣の讒言や、ムハンマド5世の教育方針との食い違いから、二人の仲は遠のき、イブン・アル=ハティーブはハルドゥーンが自ら宮廷を去るように仕向けた。ハルドゥーンがビジャーヤへ去ると、友好を取り戻そうと数度手紙を送ったが、関係は完全には修復されなかった。1369年には、自伝を含む『グラナダ史』を著した。
ムハンマド5世の信任を一身に集めるようになると、ほかの廷臣が陰謀をめぐらした。かつての弟子二人が、長年彼に恨みを抱いていた大法官ヌバーヒーと手を結び、ムハンマド5世も、彼が国政を牛耳り、マリーン朝に忠実すぎることを疑うようになった。1371年から1372年にかけて、イブン・アル=ハティーブはマリーン朝のスルタン、アブド・アル=アズィーズ1世を頼ってトレムセンへ亡命したが、廷臣たちは彼を裏切り者と非難した。引き渡しを求める使者が送られたが、スルタンは拒んだ。しかし政変でアブー・アル=アッバース・アフマドが即位すると、彼はグラナダに召喚され、異端の罪で宗教裁判にかけられた。判決が出る前に獄中で殺されたといわれ、絞殺とも伝えられる。遺体は焼かれたのち、フェズのマフルーク門に葬られた。
歴史、地理、詩、医学の分野で60余りの著作を残した。詩はアルハンブラ宮殿の壁を飾っている。公文書の書式にも改良を加えた。
同じ年に亡くなった人物
- シュテファン2世 (バイエルン公) (1375年没)
- シュッタルナ2世 (1375年)
- ジャウメ4世 (マヨルカ王) (1375年)
- ヴァルデマー4世 (デンマーク王) (1375年没)
- ヨハン・ハインリヒ・フォン・ルクセンブルク (1375年没)
同じ地域に関係する人物
- イドリース2世 (828年没)
- ボアブディル (1454年没)
- Rhadi Ben Abdesselam (2000年没)
- アフマド・マンスール・ザハビー (1603年没)
- アブド・アル=ハック2世 (1465年没)