HISTORICAL PERSON · 1952年没

シャルル・モーラス

フランスの文芸評論家・作家。王党派右翼のアクション・フランセーズで活動し、ドレフュス事件では激しい反ユダヤ主義の論陣を張った。

生涯
1952年没
死亡地
フランス共和国(アンドル=エ=ロワール県 / Saint-Symphorien)
出生地
フランス共和国(マルティーグ)
出典
世界地図
フランス共和国(アンドル=エ=ロワール県)

伝記

シャルル・モーラスは、1868年4月20日に南仏のマルティーグで生まれ、1952年11月16日にトゥールで没したフランスの文芸評論家、作家、詩人である。正式な名はシャルル=マリー=フォティウス・モーラスといい、王党派右翼の政治運動アクション・フランセーズの中心的な思想家として活動した。

中流のブルジョア家庭に生まれ、母と祖母のもとで、カトリックと王党派の気風のなかで育てられた。14歳のころ難聴を患い、発声の力も衰えたため、海軍兵学校への入学を断念せざるをえなかった。若いころにカトリックの信仰を失って不可知論者となったが、政治的な理由からカトリック教会を支持する立場はのちも保った。17歳でパリに出て、文芸誌や政治紙に寄稿を重ねるかたわら、大学や図書館に通い、オーギュスト・コントの実証主義に傾倒した。1888年には、プロヴァンスの詩人フレデリック・ミストラルと知り合い、その連邦主義の考えに共感した。文芸の面では古典主義を称え、ロマン主義を攻撃した。

ドレフュス事件の際には王党派新聞の記者で、ユダヤ人のドレフュスは国外へ追放すべきだと主張し、紙上で激しい反ユダヤ主義の論陣を張った。1899年、前年にアンリ・ヴォジョアとモーリス・ピュジョが結成したアクション・フランセーズに加わり、1905年には同名の機関紙を創刊した。オルレアン家の復活、反ユダヤ主義、対ドイツ強硬論を説く一方、プルードンやジョルジュ・ソレルのような直接行動を重んじる運動からも影響を受けた。1926年にはローマ教皇ピウス11世がアクション・フランセーズを断罪し、翌年にはモーラスの著作が禁書目録に入れられて、同派の会員は秘跡を受けることを禁じられたが、この禁令は1939年にピウス12世によって解かれた。

第一次世界大戦が始まると、会員を召集して共和制打倒の運動を一時止めさせ、対独戦争への協力を指示した。戦後はフランスの犠牲に見合う賠償とドイツの解体を要求し、民族自決の原則や、無賠償・無併合の講和には徹底して反対した。ソビエト連邦を脅威とみる一方、イタリアを重要な同盟国と考え、ムッソリーニのファシスト政権を支持した。1934年2月6日の危機では、他の右翼団体と連携して共和制の打倒寸前まで進んだが失敗し、人民戦線内閣のもとでアクション・フランセーズは地下活動を余儀なくされた。1936年には襲撃を受けて負傷し、また同年、社会党のレオン・ブルムへの殺害の脅しで八か月の禁固刑を受けた。1938年にアカデミー・フランセーズの会員となった。スペイン内戦では反共和国側のフランコを支持した。ナチスの反ユダヤ主義には一定の評価を与えつつも、ドイツがフランスへの敵愾心をあおっているとみて、早くから警戒した。

第二次世界大戦でフランスがドイツの占領下に置かれると、パリを離れてリヨンに移り、「フランスあるのみ」の考えからペタンのヴィシー政権に協力した。「アクション・フランセーズ」紙はリヨンで刊行が続けられ、レジスタンスをテロリストとして激しく非難し、ド・ゴール率いる自由フランスも批判した。1944年9月の解放とともに対独協力者として逮捕され、翌年にはアカデミーからも追放された。裁判で終身禁固刑の判決を受けたとき、「ドレフュスの復讐だ」と叫んだという。獄中でも執筆を続けたが、健康を害して1952年に治療のための恩赦を受け、トゥールの病院で亡くなった。臨終の際にカトリックの洗礼を受け、終油の儀式も受けたとされる。反近代主義の代表的な存在として、T・S・エリオットやT・E・ヒュームらに影響を与えた。

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