伝記
アルクィンは、735年ごろにノーサンブリアで生まれ、804年5月19日に亡くなったアングロ・サクソン人の学者、聖職者、詩人である。カール大帝に招かれてフランク王国の宮廷で教え、カロリング・ルネサンスを支えた中心人物の一人として知られる。両親や出自についてはほとんど分からない。伝記には「イングランドの高貴な家柄」とあるが、宣教者ウィリブロルドの親族であったことが本人の著作から知られ、一族は自由身分でありながら、貴族との結びつきで上昇した家柄ではないかとする説もある。
若いころはヨークの大聖堂学校で、大司教エクバートのもとで学んだ。エクバートはビード(尊者ベーダ)の弟子で、師をエゼルバートとする説もある。ヨークの学校は自由学芸、文学、科学、宗教の学びの拠点として名高かった。750年代に教師となり、エゼルバートが大司教になった760年代半ばには学校の長となった。助祭にはなったが司祭には叙されず、修道誓願の証拠はないものの、修道士のように暮らしたという。エゼルバートと写本を探すためにローマを訪れたこともあり、780年か781年には、ヨークの大司教職の確認と新大司教イアンバルド1世の選出の承認を得るため、王の使いとして再びローマへ赴いた。帰途、パルマでカール大帝と出会い、宮廷へ招かれた。宮廷にはピサのペトルスやアクイレイアのパウリヌスら学者が集められており、彼もその一員となった。彼は当初ためらったが、知的な好奇心もあり、のちにこれを「主が私を王への奉仕へ呼ばれた」と書いた。
782年にアーヘンの宮廷学校の長となり、790年までのあいだ、大帝自身とその子ピピンやルートヴィヒ、宮廷に学びに来た若者や礼拝堂付きの若い聖職者を教えた。ヨークから助手も連れて行き、自由学芸を軸に学校の水準を引き上げたため、その学校は「アルビヌス先生の学校」と呼ばれるまでになった。ピピンとの問答体の書物には当時の学びの様子が残り、教育の改善を求めるカール大帝の回状も彼が書いたとされる。大帝が異教徒を死の脅しで洗礼させる政策をとったときには、信仰は強いられるものではなく自由な意志によるものだと諫めた。790年にいったんイングランドへ戻ったが、大帝は北スペインで広まった養子論に対抗させるため再び彼を呼んだ。この説は、イエスは神の養子となった人間であるとする異端で、トレド大司教エリパンドゥスやウルヘル司教フェリクスが唱えていた。794年のフランクフルト教会会議では、アルクィンが正統の立場を示して勝利した。
その後再びイングランドへ戻ったが、796年の王エゼルレッドの死につながる騒乱のために国を離れ、大帝からトゥールのサン・マルタン修道院を授かり、晩年をそこで過ごした。修道院学校を模範的な学校に育て、美しい写本を数多く作らせ、書体の改良にも取り組んだ。799年の有名な書簡では、教皇もビザンツ皇帝も堕落しているのにフランク王国だけが正しいキリスト教の君主だと述べ、大帝の王国を「キリスト教帝国」と呼んだ。この構想は、800年の大帝の戴冠で現実になった。文法、修辞、論理の手引き書、神学書、聖書注釈、長い詩、ヨーク教会の歴史を詠んだ詩のほか、311通の書簡も残り、カロリング朝の人文主義を知る最も信頼できる史料とされる。大帝の伝記を書いたアインハルトは、彼を「どこにも見つからないほど学識のある人」と評した。795年に教皇レオ3世が選ばれた際の大帝の書簡も、彼の手になるとみられている。
同じ年に亡くなった人物
- 陸羽 (804年没)
- イブラーヒーム・マウシリー (804年没)
- ジョヴァンニ・ガルバイオ (804年)
同じ地域に関係する人物
- Jean Marcel Honore (2013年没)
- シャルル4世・ダンジュー (1472年没)
- アナトール・フランス (1924年没)
- シャルル・ド・ヴァロワ (オルレアン公) (1465年没)
- シャルル8世 (フランス王) (1498年没)