伝記
アルブレヒト2世は、メクレンブルク=シュヴェリーン公で、1318年に生まれ、1379年2月18日に没した。のちにスウェーデン王となったアルブレクトの父であり、北欧三国の君主を兼ねたエーリク・ア・ポンメルンの曾祖父でもある。父はメクレンブルク侯ハインリヒ2世、母はザクセン=ヴィッテンベルク公アルブレヒト2世の娘アンナである。
1329年に父ハインリヒ2世が没したとき、アルブレヒトはまだ幼く、弟のヨハン1世とともに領土を相続した。2人は、顧問たちやハンザ都市ロストクとヴィスマルの代表の後見を受けた。ハインリヒ2世の治世は戦乱が相次いだため、その死後は近隣諸国との和平が求められた。1335年4月には、スウェーデン王女エウフェミアと結婚した。彼女の父はスウェーデン王マグヌス3世の次男エリク・マグヌソン、母はノルウェー王ホーコン5世の娘インゲビョルグであり、兄のマグヌス4世は、その縁で両国の王に即位している。1336年に成年と宣言されたアルブレヒトは、国内の貴族をなだめる必要があり、都市や有力な貴族の家と同盟を結んだ。国外では、ブランデンブルク辺境伯領やポンメルン公領との争いが再燃した。一方でホルシュタイン伯領やザクセン=ヴィッテンベルク公領、とりわけボヘミア王国との接近を進め、兄弟は神聖ローマ皇帝家であるルクセンブルク家を忠実に支持した。エウフェミアとの間には、1337年から1345年のあいだに5人の子が生まれた。
1348年、カール4世によって兄弟は公爵に昇叙され、帝国諸侯に列せられた。1352年に領土を分割し、ヨハン1世にシュタルガルトを分け与えた。これがメクレンブルク=シュタルガルト公国である。自らはメクレンブルクの広大な西部を保ち、1358年にシュヴェリーン伯領を買い取ると、公爵の居所をヴィスマルからシュヴェリーンの要塞の島に移して、そこに公爵の城が築かれた。1359年には、次男のアルブレヒトがリカルダ・フォン・シュヴェリーンと結婚した。アルブレヒト2世は、エウフェミアとの結婚で得たスウェーデンの所領と姻戚関係を足がかりに、スカンディナヴィアで影響力を築いた。1362年(1361年とも)には、デンマーク王ヴァルデマー4世の長女インゲボーを長男ハインリヒの妃に迎えた。この2人の間にはアルブレヒトやマリアらが生まれている。
一方スウェーデンでは、マグヌス4世がスウェーデン貴族の争いに敗れ、1364年に退位した。マグヌス4世には次男のホーコン6世がいたが(長男のエリク12世はすでに死去していた)、貴族たちはホーコンの即位を阻むため、アルブレヒト2世の次男アルブレヒト(スウェーデン名アルブレクト)をスウェーデン王に選んだ。アルブレヒト2世は、この次男の即位に深く関わった。1370年に妻エウフェミアを亡くし、1378年3月5日、アーデルハイト・フォン・ホーエンシュタインと再婚したが、子はなかった。
アルブレヒト2世は1379年に没し、ドーベラン大聖堂に葬られた。その後、孫娘マリアは1380年にポンメルン公ヴラティスラフ7世と結婚し、エーリクを産んだ。1389年にはアルブレクトがデンマーク軍に敗れて廃位され、1397年にはエーリクが即位することになる。
同じ年に亡くなった人物
- フィロセオス一世 (1379年)
- オットー5世 (バイエルン公) (1379年没)
- エンリケ2世 (カスティーリャ王) (1379年没)
- アンドレア・ディ・ボナイウート (1379年没)
- トンマーゾ・ダ・モデナ (1379年)
同じ地域に関係する人物
- テオドール・ビルロート (1894年没)
- マグヌス2世 (メクレンブルク公) (1503年没)
- フリードリヒ2世 (メクレンブルク公) (1785年没)
- Sophia of Holstein-Gottorp (1634年没)
- マリー・フォン・ヘッセン=カッセル (1796-1880) (1880年没)