伝記
エンリケ2世は、1334年1月13日にセビーリャで生まれ、1379年5月29日に没した、カスティーリャ王国トラスタマラ朝の初代国王である。アルフォンソ11世と愛妾レオノール・デ・グスマンの子で、双子の兄弟ファドリケがいた。庶子だったため王位継承者からは外され、生まれてすぐにロドリゴ・アルバレス・デ・ラス・アストゥリアスの養子となり、翌年にその死でノレーニャ伯領を受け継いだ。父は後にトラスタマラ伯領やガリシアのレモスとサリアの領地を与え、北西部に大きな所領を築かせた。レオノールは国王の存命中に、子らのため多くの称号や特権を得ており、これが多くの貴族や、正妃マリア・デ・ポルトゥガル、嫡男ペドロの不満を招いた。
1350年にアルフォンソ11世がジブラルタル包囲中にペストで急死すると(1351年とする記述もある)、レオノールの支持者の多くは離れ、エンリケらは新王となった異母兄ペドロ1世を恐れて逃げ散った。ペドロ1世はキリスト教徒とイスラーム教徒とユダヤ教徒の共存を支持し、財務をユダヤ人のサムエル・ハ・レビに任せたが、トラスタマラ家の側はこれを快く思わなかった。エンリケはほかの兄弟とともに、治世の初めから反乱を繰り返した。味方を得るため、有力貴族ドン・フアン・マヌエルの娘フアナ・マヌエルと結婚した。1351年、国王か側近は、反乱の黒幕はレオノールだと考え、彼女を投獄して処刑した。エンリケはポルトガルへ逃げ、赦されて戻ったが、1352年にアストゥリアスで再び反乱を起こした。フランスやアラゴンの支援を受け、和解と反乱を繰り返す長い戦いになった。1355年にはトレドでユダヤ人の虐殺が起こって1200人が死んだが、エンリケがこれを後押ししたとされる。その後はアラゴン王ペーラ4世の側につき、1358年からの戦争で戦ったが、1360年にナヘラで敗れて捕らえられた。のちに解放されてフランスへ亡命した。
再びアラゴンが攻められると、エンリケは王位を奪う協力を条件に救援に向かった。ベルトラン・デュ・ゲクランの傭兵隊を含むカスティーリャ、アラゴン、フランスの連合軍でペドロ1世を追い出し、1366年にカラオラで王と宣言された。味方の貴族や聖職者に多額の金銭や領地を与えたため、「恩寵王」と呼ばれる。ペドロ1世はイングランドの黒太子の大軍の助けを得て反撃し、1367年4月3日のナヘラの戦いでエンリケを破った。エンリケはフランスへ戻り、国王シャルル5世の保護を受けて、ペイルペルテュース城で軍を立て直した。
1369年、モンティエルの戦いでペドロ1世の軍を破り、ペドロ1世は命を落とした。一説にはエンリケがその手で刺殺したともいう。エンリケは正式に即位した。庶子王や兄弟殺しとも呼ばれる。内戦でフランスの支援を受けたため、百年戦争ではフランスを支え、1372年のラ・ロシェルの海戦でイングランド海軍に大勝した。アラゴン王国とは婚姻関係を結んで親睦を深め、セゴビアのアルカサルを改築した。協力した者に領地を与えた結果、国内の貴族勢力は増大した。1379年、ペドロ1世を慕う騎士ランゴヴァンに殺されたと伝わる。ペドロ1世は記録を残す聖職者と不仲だったこともあり、同時代の記録のエンリケへの見方は好意的だったと考えられている。子には、後を継いだフアン1世と、ナバラ王カルロス3世に嫁いだレオノールがいる。ほかに多くの庶子をもうけた。
同じ年に亡くなった人物
- トンマーゾ・ダ・モデナ (1379年)
- オットー5世 (バイエルン公) (1379年没)
- アンドレア・ディ・ボナイウート (1379年没)
- アルブレヒト2世 (メクレンブルク=シュヴェリーン公) (1379年没)
- フィロセオス一世 (1379年)
同じ地域に関係する人物
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- アブラハム・イブン・エズラ (1160年代没)
- バルドメロ・エスパルテロ (1879年没)