伝記
ベルトラン・デュ・ゲクランは、百年戦争の前半に活躍し、フランスの劣勢を挽回した中世フランスの軍人である。1320年頃、ブルターニュのディナン近郊で、ラ・モット・ブローン城主ロベール2世と、サンスの女領主ジャンヌ・ド・マルマンの間に生まれた。10人兄弟の長男だった。若いころは馬上槍試合が大好きな乱暴者として知られ、顔立ちは「レンヌからディナンまでで一番悍ましい」と評された。両親からは疎まれたが、レンヌの槍試合に素性を隠して出場し、12人あるいは15人の騎士を破ったと伝えられる。試合では父との対戦を前に、敬意を示して槍を下げたという。
はじめブルターニュ公位を争ったシャルル・ド・ブロワに仕え、ブルターニュ継承戦争に身を投じた。1353年ごろからフランス王のために働き、1354年には、ノルマンディーとブルターニュにおける王の代理人アルヌール・ドードレームの旗下で戦った。1354年とも1357年ともいわれる時期に、モンミュラン城で騎士に叙任された。1356年から翌年にかけて、ジャン・ド・モンフォールに味方するランカスター公ヘンリー・オブ・グロスモント率いるイングランド軍からレンヌを守り抜き、1357年12月、報酬とともにポントルソンとモン・サン=ミシェルの守備隊長に任じられた。1359年にはムランの包囲戦に加わり、この年の終わりに初めて捕虜になった。1360年には王の代理人となり、同年のうちに2回目の捕虜となった。続いて各地の守備隊長や総大将を務め、1363年にヴィトレでティファーヌ・ラグネルと結婚し、1364年6月24日には、ロワール川からセーヌ川にかけての地域の国王代理人になった。
1364年、シャルル5世が即位すると彼に仕え、5月16日にコシュレルの戦いでナバラ王カルロス2世の軍に大勝した。同年にロングヴィル伯となったが、9月29日のオーレの戦いで敗れ、シャルル・ド・ブロワは戦死し、ゲクランは宿敵ジャン4世に捕らえられた。3度目の捕虜だったが、シャルル5世の払った身代金で解放された。1366年には、失職して社会不安の原因となっていた傭兵たちをまとめてカスティーリャへ向かい、ペドロ1世と争うエンリケ・デ・トラスタマラを援けて、ペドロと結んだエドワード黒太子と戦った。エンリケからモリナ公に任じられたが、1367年のナヘラの戦いで黒太子に大敗し、再び捕虜となった。このときの莫大な身代金はシャルル5世が立て替えた。1369年にはモンティエルの戦いでペドロ1世のカスティーリャ軍を破り、エンリケはエンリケ2世として即位した。
続くイングランドとの戦いでポワトゥーやサントンジュを取り戻した功績により、1370年10月2日、フランス王軍司令官に任じられた。1374年1月21日にジャンヌ・ド・ラヴァルと再婚した。同年、ランカスター公ジョン・オブ・ゴーントがカレーからボルドーへ進撃したが、ゲクランの働きで得るところなく退却した。1375年のブリュージュ条約で百年戦争は2年間の休戦に入り、フランスはほぼ戦前の旧状に復した。気の進まなかった1378年のブルターニュ攻略でも、ゲクランの指揮でフランス軍は勝利した。1380年7月13日、南フランスのシャトーヌフ・ド・ランドンを包囲中に、赤痢で病没した。シャルル5世は王家の墓所のサン=ドニ大聖堂への埋葬を命じ、心臓は故郷ディナンのサン=ソヴール教会に葬られた。嫡出子はいなかった。名誉を重んじて誓いを多く立て、エドワード黒太子に勝つまで座って食事をしないと自らに課すなど、中世の騎士そのままの面もあった。
同じ年に亡くなった人物
- マヌイル・カンダクジノス (1380年没)
- Jan Ocko of Vlasim (1380年)
- Nizamuddin Ahmed Pasha (1380年)
- ママイ (キヤト部) (1380年没)
- シャルル5世 (フランス王) (1380年没)
同じ地域に関係する人物
- ピエール・クラストル (1977年没)