HISTORICAL PERSON · 1380年没

シャルル5世 (フランス王)

フランス・ヴァロワ朝第3代の王で賢明王と呼ばれた。最初のドーファンとなり、父の捕囚中は摂政としてジャックリーの乱を鎮圧した。名将ゲクランを重用してコシュレルの戦いに勝ち、常備軍と徴税の基礎を築いた。

生涯
1380年没
死亡地
フランス共和国(パリ)
出生地
フランス共和国(ヴァンセンヌ)
出典
世界地図
フランス共和国(パリ)

伝記

シャルル5世は、フランス・ヴァロワ朝の第3代の王(在位1364年〜1380年)で、賢明王と呼ばれる。1338年1月21日にヴァンセンヌで生まれ、1380年9月16日にボテ=シュル=マルヌ城で没した。父はジャン2世(善良王)、母はボヘミア王ヨハンの娘ボンヌ・ド・リュクサンブールで、神聖ローマ皇帝カール4世の同母姉にあたる。アンジュー公ルイ1世、ベリー公ジャン1世、ブルゴーニュ公フィリップ2世(豪胆公)ら三人の弟がいた。最初にドーファンの称号を有した王太子であり、中世末期の行政機構の研究家は、彼を「税金の父」と呼ぶ。

宮廷では、叔父や弟、ブルボン公ルイ2世など近親の同年代の子供らと育てられた。家庭教師はおそらくシルヴェストル・ド・ラ・セルヴェルで、ラテン語と文法を教えた。1349年に、母ボンヌと祖母が、ペストで亡くなり、彼は宮廷を去ってドーフィネへ向かった。ドーフィネの伯アンベール2世は、税を徴収できず破産寸前で、後継者もなかったため、領地を売ることにし、皇帝も教皇も関心を示さず、祖父のフィリップ6世が買い取った。将来の国王となる父の物になるはずだったが、シャルルがドーファンとなり、11歳にして高位聖職者と家臣の臣従礼を受けた。1350年4月8日には、父の従妹ジャンヌ・ド・ブルボンと結婚した。近親婚のため教皇の特免を得ていたが、のちのシャルル6世の精神異常や他の子の虚弱は、この近親性に由来するのではないかとも考えられている。

1356年、ポワティエの戦いで父が敗れてイングランドの捕囚となると、王太子のまま摂政として国政を担った。フランスは疲弊の極みにあり、ナバラ王カルロス2世(エヴルー伯シャルル)ら大諸侯の画策に悩まされた。エティエンヌ・マルセルが指導するパリの反乱や、1358年のジャックリーの乱を鎮圧し、父の虜囚直後に結ばれたロンドン条約の批准と履行を拒み、1360年に新たにブレティニ・カレー条約を結ぶことに成功した。

即位後は、名将ベルトラン・デュ・ゲクランを重用して、失った国土の回復に動いた。1364年のコシュレルの戦いでは、イングランドの支援を受けたカルロス2世の軍を破り、彼のフランス王位請求を断念させた。休戦で解雇されて略奪を働いた傭兵隊は、カスティーリャ援助に誘導し、外交上の成功も収めた。スロイスの海戦以来壊滅状態にあった艦隊を再建し、提督職を復活させて、ジャン・ド・ヴィエンヌを任じ、イングランドの沿岸を襲撃させた。1372年のラ・ロシェル沖の海戦では、カスティーリャの援助も得て勝利した。定期的な臨時徴税を行い、常備軍と官僚層を整えるなど、後の絶対王政の先駆けを築いた。貨幣政策では、貨幣価値を安定させ、貴金属含有率の高い通貨を発行し続けた。

病弱で物静かな読書好きで、武勇と騎士道を好む頑強な父とは正反対だった。戦闘を避け、敵の疲労を待って城や都市を着実に奪回する戦法をとり、治世の末には、ブレティニ・カレー条約で失った領土をほぼ取り戻した。アリストテレスの『国家論』、アウグスティヌスの『神の国』などをフランス語に翻訳させ、膨大な蔵書を持った。伝記作家クリスティーヌ・ド・ピザンは、彼を「賢明で狡猾」と評した。王妃ジャンヌとの間に9人の子をもうけたが、成人したのは二人だけで、その一人がシャルル6世である。

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