HISTORICAL PERSON · 紀元前970年代没

昭王 (周)

周の第4代王。即位後に淮夷の反乱を平定し、南方遠征で東夷26邦を従えた。楚への遠征の途中で行方不明となり、楚軍との戦いで戦死したといわれる。『史記』は、死が諸侯に知らされなかったと伝える。

生涯
紀元前970年代没
死亡地
中華人民共和国(陝西省 / 漢江)
出生地
—
出典
世界地図
中華人民共和国(陝西省)

伝記

昭王は、周朝の第4代の王である。名は姫瑕とされ、父は康王、祖父は成王にあたる。即位したのは鎬の地で、紀元前996年ごろとされる。即位の時点で、父と祖父の代に中原は征服され、北や東の多くの部族は周に従っていた。なお抵抗していたのは、いまの山東省の東部に住む東夷だけだったが、もはや周の権力を脅かす存在ではなかった。昭王は繁栄した王国を受け継ぎ、父のために新しい祖先の廟を築く余裕さえあった。この廟は康宮と呼ばれ、のちに周の王室の祖先祭祀の中心となる二つの廟のひとつになった。

即位後には淮夷の反乱が起こったが、これを平定したと伝えられる。続いて積極的に南方へ遠征し、東夷の二十六邦を従わせたともいう。やがて目を向けたのは長江流域である。この地方は鉱物資源に富み、楚の連合が支配していた。周と楚は二百年近く良好な関係にあったが、昭王の治世には、楚が勢力を広げ、周の金・銅・錫への需要が高まるなかで関係が悪化し、国境での衝突が戦争に発展したとされる。ただしこれは一つの説明にすぎず、長江の鉱山の確保、略奪による富、かつて商が支配した南方の旧領の回復を狙ったとする見方もある。昭王はまず長江以北を制し、漢水流域の二十六国を打ち破って、多くの戦利品とともに引き上げたという。

その後、昭王は長江中流域へ再び大規模な遠征を起こした。王の軍の半分を集めて「西六師」に編成したとされ、長江流域を恒久的に支配下に置こうとしたらしい。しかしこの遠征は惨敗に終わり、周軍はほぼ全滅した。王と残った兵は、漢水を渡って退却する途中で溺れ死んだと伝えられる。

死をめぐる記録はひとつにまとまらない。『史記』の周本紀は、南方を巡狩して戻らずに死に、その死は諸侯にも知らされなかったと記す。一方、斉太公世家には、斉の桓公が諸侯を率いて楚を破った際、楚の成王への問責の一つとして、三百年前に昭王が南方の巡狩から帰らなかったことが挙げられている。楚軍との戦いで戦死したことは、諸侯のあいだで周知だったと考えられる。

昭王の敗死は周の威信を大きく損ない、王国の領土拡大は終わった。後を継いだ子の穆王が王国を安定させたものの、長江流域は西周の王が直接支配する地域の南限になった。それでも後代の王たちは、長江以北と漢水以東に支配を及ぼした南征の功績をたたえ続けた。昭王は自らが築いた康宮に祭祀の場を与えられ、そのように祀られた最初の周王となり、のちには祖先崇拝の重要な存在になった。一方、後世の道徳的な解釈は厳しく、遊びを好み政治を顧みず、南方での狩りの旅で死んだ王として描いた。楚の詩人たちも『天問』のなかで、その傲慢さを嘲ったとされる。

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