伝記
穆宗は、唐朝の第15代皇帝である。795年7月26日に生まれ、824年2月25日に没した。個人名は李恒で、初めの名は宥といい、812年に名を改めた。在位は820年から824年まで。憲宗の三男である。
795年、曾祖父の徳宗の治世に生まれた。当時、父の李純は広陵王、祖父の李誦は徳宗の皇太子であった。母の郭氏は李純の妻で、名将郭子儀の子の郭曖と、徳宗の妹にあたる昇平公主との間に生まれた娘だった。宥は初め建安王に封じられ、806年に父が憲宗として即位すると、遂王とされた。ところが母の郭氏は、憲宗の妻でありながら皇后には立てられず、貴妃にとどまった。憲宗は、名門の出である彼女が皇后になれば後宮を支配し、ほかの妃が近づけなくなることを恐れて、官僚たちの請願をたびたびはぐらかしたという。官僚たちは宥を正嫡の跡継ぎとみなしていたが、809年に翰林学士たちが立太子を求めたとき、憲宗が皇太子に立てたのは、紀氏の産んだ兄の李寧であった。李寧は811年に死去し、翌812年に憲宗は宥を皇太子に立て、恒と改名させた。このとき憲宗は、兄の李寛が地位を譲ると申し出る上表を翰林学士の崔群に起草させようとしたが、崔群は、正妻の子である恒こそ優先されるべきだと指摘して断り、憲宗も同意したという。
皇太子時代の事績はあまり記録されていない。817年には、学問の相手を務めていた諫議大夫の韋綬が、高価な食事を供したり冗談で機嫌をとったりしたため憲宗の不興を買い、侍従を解かれて都の長安から虔州刺史に出された。また有力な宦官の吐突承璀は、恒を廃して別の兄の李寛(のち李惲と改名)を皇太子にするようたびたび憲宗に勧めていた。820年に憲宗が重い病になってもその望みを捨てず、不安になった恒が叔父の郭釗に相談すると、ただ孝行を尽くして父に仕え、ほかのことは気にするなと助言された。
憲宗の病は不老不死を目指す錬金術師の丹薬によるといわれ、気性は荒く、宦官たちは恐れていた。820年春、憲宗は急死した。宦官の陳弘志に殺されたと信じられたが、宦官は調査を抑え込み、丹薬の副作用による死と発表した。その後、恒を支持する宦官の梁守謙、馬進潭、劉承偕、韋元素、王守澄らが吐突承璀と李惲を殺し、恒が即位して穆宗となった。のちの宣宗となる弟の李怡をはじめ、恒と母の郭氏が憲宗の暗殺に関与したのではないかと疑う声もあった。
即位した穆宗が受け継いだのは、父の治世(元和の中興と呼ばれた)の間に藩鎮がひとまず抑えられていた国であった。穆宗は、まず憲宗に丹薬を勧めた錬金術師たちを死刑にした。宰相の皇甫鎛と令狐楚を流罪にして新しい宰相に替え、母の郭氏を皇太后として手厚く遇した。自身は遊びや狩りに時間を多く費やしたが、それを不適切として諫める官僚の言葉には寛容だったといわれる。一方で、憲宗が服属させた黄河以北の三つの藩鎮が事実上独立し、内政では腐敗が広がった。宦官の専横はさらに顕著になり、牛李の党争と呼ばれる官僚の派閥争いも激しくなった。穆宗自身も長寿を願い、道士が勧める金丹を服用して中毒になったとされ、824年に没した。短い治世は、唐が衰退へ向かう出発点とみなされている。子には、のちに皇帝となる者が三人いる。王妃の産んだ長男の李湛が敬宗、蕭宮人の産んだ次男の李涵が文宗、韋妃の産んだ九男の李瀍が武宗である。ほかに、出家して道士となった義昌公主や安康公主もいた。
同じ年に亡くなった人物
- ナフィーサ・ビントル・ハサン (824年)
- パスカリス1世 (ローマ教皇) (824年没)
- 韓愈 (824年没)
- 平城天皇 (824年没)