伝記
マルグリット1世は、1309年か1310年にパリで生まれ、1382年5月9日に没した、ブルゴーニュ女伯およびアルトワ女伯である。在位は1361年から1382年までで、フランス王フィリップ5世と、ブルゴーニュ女伯ジャンヌ2世の娘にあたる。マルグリット・ド・ブルゴーニュ、マルグリット・ド・フランスとも呼ばれる。ポワティエ伯だった父の次女であり、姉にジャンヌ3世がいた。
1320年6月21日、ヌヴェール伯ルイとレテル女伯ジャンヌの子で、フランドル伯となるルイとの婚約契約が結ばれた。花嫁は10歳か11歳、花婿は16歳ほどであった。結婚はその翌月の7月22日に行われた。夫のルイは、1316年に王位に就いていた彼女の父に頼って、ニコラース・ゼナキンの反乱を抑えようとしたが、フィリップ5世は1322年に没し、弟のシャルル4世が跡を継いだ。夫妻には1330年にひとり息子ルイ2世(ルイ・ド・マール)が生まれた。夫は1346年8月25日、クレシーの戦いで戦死し、息子はまだ未成年であったため、マルグリットは治世のはじめに息子の摂政を務めたといわれる。
母ジャンヌ2世が1330年に死去すると、その所領は姉のジャンヌ3世が相続し、1349年にジャンヌ3世が死去すると、その孫のブルゴーニュ公フィリップ1世が受け継いだ。1357年、マルグリットの孫娘マルグリット・ド・ダンピエールがこのフィリップと結婚したが、二人に子はなく、フィリップは1361年に早世した。遺領は縁者のあいだで分けられ、ブルゴーニュ伯領とアルトワ伯領はマルグリットが得た。
1364年、孫娘はイングランド王エドワード3世の子、ヨーク公エドマンドと婚約していたが、のちに1369年、フランス王ジャン2世の末の息子であるブルゴーニュ公フィリップ2世と結婚した。息子ルイ2世とフランドルの都市は、フランスよりイングランドを好んでおり、この縁組に乗り気ではなかった。そこでマルグリットは、息子の気が進まないことに腹を立て、あるとき自分の服を引き裂きながら、息子を育てたこの乳房を裂いて犬に投げ与えると言ったという。この出来事ののち、ルイ2世は縁組に同意した。
晩年のマルグリットのもとで、低地地方の沿岸では騒乱が続き、ヘントの反乱がルイ2世とフィリップ2世によって鎮められた。しかしベーフェルホウツフェルトの戦いののち、ルイ2世はフィリップ・ファン・アルテフェルデに率いられた民衆によってフランドルを追われた。マルグリットは1382年5月9日に72歳か73歳で世を去り、パリのサン=ドニ大聖堂に葬られた。反乱軍が決定的に敗れたローゼベーケの戦いは、同年11月27日、その死の数か月後であった。所領は息子が受け継いだが、息子は1384年に没し、すべての所領は孫娘のマルグリットに渡った。
同じ年に亡くなった人物
- ラヨシュ1世 (ハンガリー王) (1382年没)
- Winrich von Kniprode (1382年)
- ミケーレ・モロシーニ (1382年)
- ルドヴィーコ2世・ゴンザーガ (1382年没)
- フィリッパ (第5代アルスター女伯) (1382年没)
同じ地域に関係する人物
- ポール・パンルヴェ (1933年没)
- ミシェル・セール (2019年没)
- エクトル・クレミュー (1892年没)
- アントワーヌ・ウダール・ド・ラ・モット (1731年没)
- アンリ4世 (フランス王) (1610年没)