伝記
ラヨシュ1世は、アンジュー家のハンガリー王(在位1342年〜1382年)で、1370年からはポーランド王も兼ねた。ポーランドではルドヴィク1世と呼ばれ、大ラヨシュ、大王とも称される。1326年3月5日、父カーロイ1世と、ポーランド王家出身の母エルジェーベトの間に生まれた。両親の子のうち、幼児期を生き延びた最初の子で、三男だったが、上の兄たちが早世したため後継者となった。名は、1317年に列聖されたトゥールーズ司教ルイにちなむ。
当時としては自由な教育を受け、フランス語、ドイツ語、ラテン語を学び、歴史や占星術にとくに関心を示した。だが宗教的な熱意は、深く信仰していた母の影響によるものだったという。1330年4月、ヴィシェグラードで王家一族の暗殺未遂事件が起きたとき、二人の家庭教師が、彼と弟アンドラーシュの命を救った。1338年、父とポーランド王カジミェシュ3世の間で結ばれた条約が、母方の叔父カジミェシュに男子がなければ、彼がポーランドを継ぐ権利を確認していた。1342年、父の後を継いで即位したが、この時代の王権は、父の治世で大貴族が抑えられ、強化されていた。
彼は勢力拡大のため、積極的に対外政策を行った。ヴェネツィア共和国と交戦して、クロアチアとダルマチアを支配下に収め、1358年にはヴェネツィアにダルマチアの諸都市を放棄させたとされる。1370年にカジミェシュ3世が男子のないまま没すると、ポーランド王位も継承した。さらに、ナポリ王国の王位も狙った。弟アンドラーシュは、ナポリ女王ジョヴァンナ1世の最初の夫だったが、1345年に暗殺された。ラヨシュは女王を犯人だと非難し、彼女を罰することが外交の主な目標となった。1347年には軍を動かして都ナポリを占領したが、王位は得られなかった。晩年の1382年には、同族のカルロ3世にジョヴァンナ1世を殺害させ、王位に就けた。
内政では、1351年の議会で貴族の自由を確認して、貴族の平等な地位を強調し、農民が地主に払う地代の統一や、農民の移動の自由の確認も行った。1367年にはペーチに大学を創設したが、財源を十分に整えなかったため、20年足らずで閉鎖された。バルカン半島への勢力拡大には失敗し、また異教徒や正教徒を改宗させようとしたため、その地域では不人気だった。ヴェネツィアとの戦争でアドリア海経由の物流が滞り、トランシルヴァニアやワラキア経由の物流が発展して、両地域の発展を促す結果を招いた。大貴族層の反発にも遭い、晩年には特権を与える譲歩もしている。これは、ハンガリー王権の衰退を示すものでもあった。
男子がなかったため、死後の王位はハンガリーが年長の娘マーリア、ポーランドが末娘ヤドヴィガに渡った。そのため、1374年にコシツェの特権状を発して、ポーランド貴族の自由を定めたが、ポーランドでの評判は悪かった。皮膚病を患い、晩年は信仰をいっそう深めた。1342年に神聖ローマ皇帝カール4世の長女マルガレーテと結婚したが、彼女は早世し、子はなかった。1353年にボスニア太守の娘エリザベタと再婚し、三人の娘が生まれ、成人したのは二人だった。1382年9月10日に没した。
同じ年に亡くなった人物
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- アンドレア・コンタリーニ (1382年没)
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