伝記
ビル・チルデンは、1893年2月10日にアメリカのペンシルベニア州フィラデルフィアに生まれた男子テニス選手である。本名はウィリアム・ターテム・チルデン2世という。大男だったことから「ビッグ・ビル」と呼ばれ、長身を生かした弾丸サーブ「キャノン・ボール」を最大の武器にした。裕福な家に育ったが、3人の兄の死に影を落とされ、母を15歳で、父を19歳で亡くしたという。四大大会での優勝10回は、1967年にロイ・エマーソンが抜くまで歴代1位の記録だった。第一次世界大戦後の時代に活躍し、日本のテニス界の黎明期にも大きな影響を与えた。
チルデンは早くから日本人選手との対戦が多かった。1918年の全米選手権準決勝では、日本人として初めて四大大会の準決勝に進んだ熊谷一弥を6-2、6-2、6-0で破ったが、決勝ではリンドレイ・マリーに敗れて準優勝となった。1919年にも全米選手権の決勝に進んだが、ビル・ジョンストンに敗れている。転機となった1920年のウィンブルドン選手権では、日本から勝ち進んだ清水善造と、挑戦者を迎えるチャレンジ・ラウンドの決勝で対戦し、6-4、6-4、13-11で競り勝った。その後、前年の優勝者であるオーストラリアのジェラルド・パターソンを破って初優勝を飾っている。清水のこの決勝進出は、今も日本の男子選手の四大大会での最高成績の一つである。
1920年から1925年にかけて、チルデンは全米選手権で6連覇を達成した。1918年から1925年まで8年連続で決勝に進み、1919年から1925年の間には、ジョンストンと6度の決勝を戦っている。身長188センチのチルデンが「ビッグ・ビル」、173センチのジョンストンが「リトル・ビル」と呼ばれ、二人はアメリカのライバルとして対比された。1927年の決勝ではフランスのルネ・ラコステに敗れたが、1929年に4年ぶり7度目の優勝を果たした。全米選手権の男子シングルス7勝は、今も歴代1位タイの記録である。デビスカップでは1920年から1926年までのアメリカの7連覇に貢献し、1921年に日本が初出場した際は、ジョンストンとともに清水と熊谷の挑戦を退けた。全仏選手権は1927年と1930年に準優勝に終わり、優勝はできなかった。
1921年には、技術解説やライバル選手の観察を含む著書『ローンテニスの芸術』を出版した。1931年、アマチュア資格をめぐるトラブルに嫌気がさしてプロに転向した。1936年10月にはアメリカ人プロ3人の一行で来日し、日本のファンにプロテニスを紹介した。43歳で往年の切れ味は落ちていたが、会場はどこも超満員になったという。この来日で旧友の清水と再会し、佐藤俵太郎を自身の主催するツアーに誘い、佐藤は日本人最初のプロテニス選手となった。プロとして大金を稼いだ一方、私生活では浪費家だったといわれる。1953年6月5日、ロサンゼルスの自宅で心臓発作のため亡くなった。全米プロ選手権に出場するためクリーブランド行きの旅券を持っていたが、自室で遺体が発見された。没後6年の1959年に国際テニス殿堂入りを果たしている。
同じ年に亡くなった人物
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- ヨシフ・スターリン (1953年没)
- スノーウィー・ベイカー (1953年没)
- ジャン・デルヴィル (1953年没)
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- ジョセフ・サージェント (2014年没)
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