HISTORICAL PERSON · 1388年没

崔瑩

高麗末期の重臣・名将で、清廉な人物として評価される。倭寇や紅巾軍を撃破し、済州島の元の残党も制圧した。1388年に遼東遠征を指揮したが、李成桂の威化島回軍で捕らえられて処刑された。

生涯
1388年没
死亡地
大韓民国(京畿道 / 高陽市)
出生地
大韓民国(洪城郡)
出典
世界地図
大韓民国(京畿道)

伝記

崔瑩(チェ・ヨン)は、高麗末期の重臣で名将である。1316年に崔元直の息子として生まれた。鉄原の東州崔氏という貴族の名家に生まれ、質素に育てられた。16歳のとき、父は「黄金を石ころのように思う人間となれ」という家訓を遺言として死んだ。崔瑩は生涯この教えを守り、出世したのちも衣食に無頓着で、簡素であることを美徳とした。

武臣となった崔瑩は、1350年ごろから朝鮮半島の沿岸を襲い始めた倭寇に対する数々の勝利で、兵と王の信頼を得た。1352年には、朝廷に反逆して権力を握っていた趙日新が起こした反乱を鎮めて、武名を轟かせた。1354年、各地の反乱に苦しむ元から救援の要請を受け、高麗が精兵2000を送ると、崔瑩は元にもその名を知られるようになった。1355年、恭愍王が元の衰退に乗じて反元運動を進めると、崔瑩は王の命を受け、元に占領されていた鴨緑江西方の八つの軍事基地を奪還した。1356年には双城総管府を攻めて降伏させた。降伏した総管李子春の息子で副総管だったのが、のちに朝鮮王朝を開く李成桂である。1358年には倭寇が侵入し、崔瑩は迅速に出陣して倭船400隻に勝った。翌1359年、紅巾軍が約4万の軍勢で高麗に侵攻すると、安祐らとともに迎え撃って、ほとんど全滅させた。1361年に紅巾軍が10万の大軍で再び攻めてきたときは、総指揮官として軍を率いてこれも撃破し、功臣に録された。

1363年、金鏞が興王寺に滞在中の王の暗殺を図ると、崔瑩は軍を率いて反乱軍を破り、王を救って首謀者の金鏞を捕らえた。1364年、元は反元の王を廃して叔父の徳興君を立てようと、崔儒に1万の兵を授けて高麗へ侵攻させたが、崔瑩らの高麗軍に国境近くで殲滅され、元は恭愍王の復位を認めた。これにより高麗は元の干渉からほぼ完全に脱した。1368年に新たに興った明が同盟を持ちかけると、王は崔瑩に、元の残る拠点への侵攻を命じ、崔瑩は鴨緑江の北へ進んで、1370年に遼陽を占領した。

恭愍王は、僧の辛旽を高い地位に取り立てた。崔瑩は腐敗に強く反対したため辛旽と対立し、辛旽の策謀で濡れ衣を着せられて6年の流刑に処され、処刑寸前にまで追い込まれたが、1374年に辛旽が死ぬと、王は崔瑩を元の地位に戻した。南の済州島では、元の残党が度々反乱を起こしていた。崔瑩は340隻、2万5600の大軍でこれを制圧し、捕虜は容赦なく殺した。崔瑩は倭寇とも、1376年に鴻山、1377年に西江、1378年に昇天府で戦って大勝し、1376年の戦いの後に鉄原府院君と称され、1378年の戦いの後は安社功臣の号を受けた。

1388年、中国を統一した明は、高麗領である鉄嶺以北の割譲を一方的に通告してきた。王禑と崔瑩は遼東を支配下に置いて明の圧力を退けようと計画した。崔瑩は総司令官となって開京から指揮をとり、李成桂と曹敏修が前線を担った。李成桂は遠征に反対していたが、王禑は崔瑩の意見に従った。5月、遠征軍は鴨緑江河口の威化島に着いたが、大雨で川が増水して渡れず、逃げる兵が相次ぎ、食糧の補給も困難になった。李成桂は撤退を求めたが認められず、独自に軍を引き返した(威化島回軍)。崔瑩は抵抗軍を組織しようとしたが、集まる者はほとんどいなかった。崔瑩は捕らえられて流刑となり、直後に処刑された。死の直前、「自分に少しでも私心があれば墓に草が生えるだろうが、そうでなければ草は生えぬ」と言い残したと伝えられ、墓には草が一切生えなかったという。李成桂は「本心で殺したのではない」と述べ、朝鮮王朝の建国後、崔瑩の「罪」を消して「武愍」の諡を与えた。

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