伝記
フリーダ・カーロは、1907年7月6日にメキシコシティ近郊のコヨアカンで、父ギリェルモ・カーロと母マティルデの三女として生まれたメキシコの画家である。父は1871年にドイツ南部のバーデン=バーデンで生まれたハンガリー系ユダヤ人の職業写真家で、1891年にメキシコへ渡り、公式写真家の地位を築いた。母はメキシコ系の出自で、フリーダは自らのルーツを堂々と表明していた。生家の「青い家」は、両親が1904年に建てたものである。1910年のメキシコ革命で安定した暮らしは終わり、母が出産の影響で衰弱していたため、幼年期は乳母に育てられた。
6歳で急性灰白髄炎にかかり、およそ9か月寝たきりとなって、右の腿から踝にかけて成長が止まった。それを隠すため、ズボンや民族衣装のロングスカートを好んで着たという。父はリハビリを兼ねて彼女をハイキングに連れ出し、趣味の水彩画や、仕事のカメラの手ほどきをした。こうした経験は、のちに画家となった彼女に大きな影響を与えた。1922年に、国立予科高等学校へ進み、女子として入学した最初の35人の1人となった。「カチュチャス」というグループに入って文学に熱中し、リーダーのアレハンドロと恋仲になった。
1925年9月17日、通学のバスが路面電車と衝突し、フリーダは生死の境をさまよう重傷を負った。3か月ベッドの上で過ごし、その後も背中や右足の痛みに悩まされた。痛みと退屈を紛らわすために本格的に絵を描き始めたとされる。アレハンドロとの仲は自然に消え、その孤独も彼女を絵へのめり込ませた。1928年にメキシコ共産党に入党し、写真家ティナ・モドッティの紹介で画家ディエゴ・リベラと出会う。闘病中の作品を見せると、リベラは「カンバスにはものすごい表現力が示されていた」と語った。1929年8月21日、フリーダは21歳年上のリベラと結婚した。夫の仕事でサンフランシスコ、ニューヨーク、デトロイトなどを転々とし、1930年、1932年、1934年に流産を経験した。これらは彼女に深い影を落とし、作品にも反映された。
1935年にリベラが彼女の妹クリスティナと関係を持つと、衝撃を受けて家を出た。1936年にスペイン内戦が始まると共和国側を支援する委員会をつくり、1937年にはメキシコへ来たレフ・トロツキーと妻を「青い家」に迎えて、1939年まで住まわせた。1938年には海外で初めての大規模な個展を開き、ニューヨークでも個展を催した。翌1939年にはパリに渡り、ルーブル美術館は『ザ・フレーム』を買い上げた。同年11月6日にリベラと離婚したが、1940年12月8日にサンフランシスコで再婚した。1940年代にはメキシコ国内でも名が知られ、1942年には絵画と造形の専門学校の教員に選ばれた。
健康は1940年代の終わりに悪化して入退院をくり返し、1950年には右足の指先が壊死して切断し、1953年8月には膝まで切断した。1954年2月の日記には、いまも自殺したくなるときがあり、ディエゴだけがそれを思いとどまらせてくれる、と綴っている。同年7月13日、肺炎を併発して亡くなった。生涯に200点を超える作品を残し、その大半は自画像だった。1958年7月12日、「青い家」は記念館として開館した。
同じ年に亡くなった人物
- アンドレイ・ヴィシンスキー (1954年没)
- ウラジミール・ギカ (1954年没)
- ホセ・ミリャン・アストライ (1954年没)
- ハインツ・グデーリアン (1954年没)
- リバティ・ハイド・ベイリー (1954年没)
同じ地域に関係する人物
- ヴァレンティン・ゴメス・ファリアス (1858年没)
- ピタ・アモール (2000年没)
- Juan Soriano (2006年没)
- Manuel de la Pena y Pena (1850年没)
- イルカ・チェイス (1978年没)