HISTORICAL PERSON · 1954年没

ハインツ・グデーリアン

ドイツの陸軍軍人。無線技術に通じ、第二次大戦の前半は軍団長・軍司令官として第一線で指揮をとり、後半は参謀総長代理を務めた。

生涯
1954年没
死亡地
ドイツ連邦共和国(バイエルン州 / シュヴァンガウ)
出生地
ポーランド共和国(ヘウムノ)
出典
世界地図
ドイツ連邦共和国(バイエルン州)

伝記

ハインツ・ヴィルヘルム・グデーリアンは、1888年6月17日にヴァイクセル河畔のクルム(現在のポーランド領ヘウムノ)で生まれたドイツの陸軍軍人である。一族は大土地所有者で、プロイセン王国の軍人となった父フリードリヒは珍しい存在だった。幼いころから軍人を志し、カールスルーエの陸軍幼年学校からベルリンの陸軍士官学校へ進んだ。1907年に卒業するとハノーファー第10猟兵大隊に配属され、メッツの軍事学校での生活は苦痛だったが、将校任用試験に合格して1908年1月27日付で少尉に任官した。1912年には、上官でもあった父のすすめでコプレンツの電信大隊に勤務し、無線技術に通じるようになった。1913年には医学博士の娘マルガレーテと結婚した。

1914年に第一次世界大戦が始まると、無線局長や秘密情報機関の副官などを務め、各師団や軍の参謀職を歴任して、1918年2月に正式な参謀本部付きの参謀となった。終戦後のドイツ革命の混乱は、将校としての誇りをもつ彼には耐え難かった。1919年にはラトビアでボリシェヴィキ軍と戦う義勇軍の兵站参謀に任じられ、そこで鉄師団が脱走して白軍に加わるという作戦を立案したが、本人はその前に本国へ召還され、参謀職を解かれた。ヴェルサイユ条約でヴァイマル共和国軍は戦車の保有などを禁じられ、兵力は10万人に制限された。グデーリアンは軍籍を残したが、交通兵監部に配属された。左遷とも見られた部署で一時は退役も考えたものの、運送の実務を重ねるうちに自動車や装甲部隊の有用性に目覚めた。

ジョン・フラーやド・ゴールの著作に影響を受け、ベニヤ板の模擬戦車を使って戦術を研究した。回顧録では自分を装甲部隊運用の先駆者として強調したが、実際にはエルンスト・フォルクハイムのような先駆者もおり、上官にも推進者がいたと指摘されている。1933年にヒトラーが首相になると、グデーリアンの指揮した演習をヒトラーが激賞したことで、自分の見解に賛同してもらえるという確信を持ったと回想している。1935年に3個装甲師団が新設されると、第2装甲師団長に任じられた。1937年には著書『戦車に注目せよ!』を出版し、戦車を主力としつつ、機動力を高めた歩兵や爆撃機の火力支援と組み合わせて、敵の弱点に突破力を集中する構想を示した。この本は国内のベストセラーとなった。

1938年のオーストリア併合ではウィーンに進駐し、第2装甲師団は670キロを走破したが、車両の3割が故障して、上層部には装甲部隊への疑念が上がった。同年11月28日には快速部隊長官に就いたが、指揮権も人事権もなく、「底なしの樽に水を汲む」ような仕事だったと回想している。1939年のポーランド戦では第19装甲軍団長として従軍し、9月17日にブレスト・リトフスクの要塞を陥落させ、騎士鉄十字章を授与された。1940年のフランス戦では、マンシュタインのアルデンヌ突破の計画に、装甲部隊で突破できると保証を与えた。そして5月、スダンを突破すると、橋頭堡の確保という当初の命令を退けてアミアンへと進撃した。進撃を止めるよう命じられて反発し、一時はクライストから指揮権を取り上げられたが、リストの裁定で復帰した。ダンケルクでは攻撃を禁じられて屈辱を味わったが、この戦功により7月に上級大将に昇進した。第二次世界大戦の後半には参謀総長代理を務め、1954年5月14日に没した。

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