HISTORICAL PERSON · 1954年没

エヴァルト・フォン・クライスト (軍人)

ドイツ陸軍元帥。ポメラニアの名門貴族の出で、第二次大戦では電撃戦の中核となる装甲集団の司令官などを務めた。

生涯
1954年没
死亡地
ロシア連邦(ヴラジーミル州 / ヴラディーミル中央刑務所)
出生地
ドイツ連邦共和国(ブラウンフェルス)
出典
世界地図
ロシア連邦(ヴラジーミル州)

伝記

パウル・ルートヴィヒ・エヴァルト・フォン・クライストは、1881年8月8日に生まれたドイツの陸軍軍人で、最終階級は元帥である。クライスト家はポメラニア発祥の名門貴族で、数多くの軍人、政治家、芸術家を出した家柄だった。彼は教育者の息子としてプロイセン王国のブラウンフェルスに生まれ、1900年に士官候補生として第3野砲連隊に配属され、翌年少尉に任官した。1910年に中尉となった。1914年3月に騎兵大尉に昇進して第1ユサール連隊に移り、第一次世界大戦が始まるとタンネンベルクの戦いに従軍した。騎兵大隊長として前線で戦い、1917年から終戦までは西部戦線で参謀を務めた。マクデブルクに駐屯していたときには、のちに大統領となるヒンデンブルクと「ちょっとした知り合い」になり、戦後は同じハノーファーに住んだことから、「もっと知るようになった」と語っている。

終戦後の1919年に義勇軍へ加わり、翌1920年にヴァイマル共和国のドイツ国軍に採用された。1925年には、大統領選挙に出ようとしていたヒンデンブルクを訪ね、「政治家になれば、政治家としても人間としても面目を失うかもしれない」と出馬の自粛を進言したという。1931年にポツダムの第9歩兵連隊長となり、1932年1月1日にはルントシュテットの後任として第2騎兵師団長に就き、同年10月に少将となった。ナチス政権下の1934年に中将に昇進し、1936年には騎兵大将としてブレスラウの第8軍団司令官に就いた。ところが1938年2月4日、元陸軍総司令官のフリッチュらとともに軍を退いた。本人は、ルター派教会に属する自分として、教会などの宗教問題に対するナチ党の姿勢に賛同できなかったことが理由だと語っている。年少兵に礼拝への参加を命じ、それを撤回せよという国防軍最高司令部の指令を拒んだことも挙げた。

1939年に第二次世界大戦が始まると現役に復帰し、第22自動車化軍団を率いてポーランド侵攻に加わり、ポーランド軍の南方防衛線を突破した。翌1940年には5個装甲師団からなる「クライスト装甲集団」を率い、西方電撃戦の先鋒を担った。この戦功で7月14日に上級大将に昇進し、騎士鉄十字章を受けた。ダンケルクでのヒトラーによる停止命令については、「危険すぎると考えたのだ」としたうえで、「本当にばかげていた」と語っている。1941年4月にはバルカン戦線に参加し、6月のバルバロッサ作戦では第1装甲集団を率いてソ連軍の国境防御線を突破した。ウーマニの戦いやキエフの戦いではグデーリアンの第2装甲軍と協力し、大量の捕虜を得た。1942年1月に第1装甲軍の司令官となり、9月にはA軍集団司令官に任じられ、翌年2月に元帥に列せられた。しかし独ソ戦の作戦遂行をめぐってヒトラーと度々意見が合わず、1944年3月29日に解任されて、後任はモーデルとなった。

戦後、アメリカ軍の捕虜となり、ニュルンベルク裁判では証人としてマンシュタインらとともに参謀本部の弁護に力を尽くした。その後ユーゴスラビアに引き渡されて戦争犯罪人として懲役15年の判決を受け、1948年にはソ連に引き渡されて終身禁固の判決を受けた。1954年11月13日、ソ連のウラディミロフカ捕虜収容所で心不全のため亡くなった。当初は騎兵出身の保守的な戦術思考から機甲部隊を中心とした電撃戦に否定的で、グデーリアンとは激しい口論になったが、フランス侵攻後に有効性を認め、機甲戦術を学んで対ソ戦で活用し、「パンツァークライスト」と呼ばれるまでになった。

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