HISTORICAL PERSON · 1954年没

レオン・ジュオー

フランスの労働組合活動家。フランス労働総同盟の事務局長を長く務めてマティニョン協定の締結を果たし、1951年にノーベル平和賞を受賞した。

生涯
1954年没
死亡地
フランス共和国(パリ / 12区)
出生地
フランス共和国(パリの15区)
出典
世界地図
フランス共和国(パリ)

伝記

レオン・ジュオーは、1879年7月1日に生まれたフランスの労働組合活動家である。祖父は1848年の六月蜂起に加わり、父は1871年のパリ・コミューンで太鼓手を務め、下水道の知識のおかげで虐殺を逃れたと伝えられる。彼は革命的なパリの気風を受け継ぐ家に生まれ、父アドルフは市の職員、母アンヌ=マリは料理人だった。一家はのちパリ北東の工業地帯オーベルヴィリエに住み、父はそこのマッチ工場で働いた。成績のよかった少年は職業学校に進み、技師になることを望んだが、父がストライキのために給料の支給を止められるなど家計が苦しく、学業を断念せざるをえなかった。それでも読書の習慣は身につき、無政府主義者の集まりの図書館に通った。のちの回想によれば、労働運動と組合活動へ導いたのはプルードンの研究だったという。石鹸工場や鍵屋で働いたのち、16歳で父と同じマッチ工場に入り、六百人の工員を抱えるその職場の組合活動にすぐ加わった。白リンの使用廃止を求めるマッチ産業のストライキにも参加し、1900年には、父が失明して退職に追い込まれた原因である白リンの使用に抗議するストにも加わっている。

兵役を終えたあとも組合の活動を続けたが、無政府主義の活動家たちと乱闘に巻き込まれて三か月の禁固刑を受け、工場を解雇された。その後は不安定な職を転々としつつ、セーヌ県の不熟練労働者の組合を結成した。1905年に工場へ復職し、マッチ産業連盟の代表としてフランス労働総同盟(CGT)の全国委員会に出席するようになる。1906年には地域代表に選ばれた。1909年、書記長の辞任に続く混乱のなかで、会計係が投獄されたため臨時にその職を任され、やがて事務局長に選ばれた。就任時は30歳に近く、前任者の口真似にすぎないと評する声もあったが、その後の経過はそうではなかったことを示した。以後1947年までこの職を務めた。

彼は、政党や国家、教会からの労働組合の独立をうたうアミアン憲章の原則を守り続け、1911年には社会党、1922年にはボリシェヴィキによる組合支配の企てに反対した。1914年にはジャン・ジョレスの葬儀で弔辞を述べ、第一次世界大戦では「神聖連合」の側に立ち、当初の革命的組合主義の傾向は、この年以降「改革主義」とみなされるようになった。目標は、1日8時間労働、団結権と団体交渉権の確認、休日出勤の賃金支払いといった、初期の労働運動に近いものだった。人民戦線の時期の1936年にはマティニョン協定の締結を果たし、労働環境の向上に大きく貢献した。第二次世界大戦の開戦前には戦争に反対する組織をいくつも立ち上げたが、戦争が始まると、ナチス・ドイツが勝てばヨーロッパの民主主義が壊されると信じてフランスを支持した。戦争中はブーヘンヴァルト強制収容所に収監されている。戦後は共産党系が主導権を握ったCGTを離れ、1947年に社会民主主義的な新しい労働組合組織を結成し、その会長を務めた。同じ年から経済社会評議会の議長となり、国際労働事務局の副議長なども務めて、1951年にノーベル平和賞を受けた。1954年4月28日に亡くなり、遺体はパリのペール・ラシェーズ墓地に葬られた。

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