伝記
ドミートリー・ドンスコイは、1350年10月12日にモスクワで生まれ、1389年5月19日に没したモスクワ大公である。在位は1359年から死去までで、本名はドミートリー・イヴァーノヴィチという。イヴァン2世の長男で、イヴァン1世の孫にあたる。「ドンスコイ」とは「ドン川の」を意味する称号で、ドン川流域での武功にちなむ。ロシアの歴史では、民族的英雄で、中世ロシアの中心人物の一人とされ、ロシア正教会は彼を聖人に列している。
1359年、父イヴァン2世が没し、9歳で大公位を継いだ。幼少のころは、亡き大公の側近たちが実権を握り、府主教アレクシイが彼の養育と教育を監督して、政治にも大きな影響力を持った。当時、ジョチ・ウルスはサライのハン位をめぐる混乱に陥っていた。1360年には、ウラジーミル大公位が、ハンの決定でスーズダリのドミートリー・コンスタンチノヴィチに移った。1362年に、ドミートリー・イヴァーノヴィチが対立するハンの一人から大公位を認める文書を受けると、モスクワの貴族らは従兄弟のセルプホフ公ウラジーミルらと軍を集め、相手をウラジーミルから追い出した。相手はその後、大公位の請求を断念し、二人は和解に至った。1366年1月、彼は相手の末娘エヴドキヤと結婚した。1367年には、モスクワのクレムリンが初めて石造りで再建された。
この頃、トヴェリ大公ミハイルが、リトアニアの支援を受けて、モスクワの優位に挑戦した。1368年、1370年、1372年と、ミハイルとその義兄弟のリトアニア大公アルギルダスの侵攻を受けたが、いずれも退けた。1375年にはロシア連合軍を率いてトヴェリを攻撃して勝利し、条約でミハイルはドミートリーを「兄」として敬い、ウラジーミル大公位の請求権を放棄した。この間の1371年、ミハイルがママイの宮廷を訪れて大公位の文書を得ると、ドミートリーも、ママイのもとへ赴いて、その権威のもとでウラジーミル大公位を獲得した。ただ、ハンはミハイルに与えた文書を取り消さず、ロシアの諸公の内紛を期待していたとされる。ハンへの貢納には民衆の不満も生じ、1371年12月14日には、モスクワ軍がスコルニシチェヴォの戦いでリャザン公国の軍を破った。
その後、ドミートリーはママイと敵対し、1380年のクリコヴォの戦いでこれを破った。この戦いは、ルーシの諸公国にとって、タタールに対する史上初の大勝であり、モスクワ大公国の威信と勢力を大きく高め、ロシアが「タタールのくびき」から脱却する最初のきっかけとも評価される。しかし、ママイを滅ぼしてジョチ・ウルスを再統一したトクタミシュは、再びタタールの宗主権を主張してモスクワを攻撃し、首都を占領した。ドミートリーは、改めて臣従を誓い、大公の地位と徴税権を再び認められた。晩年は、諸公の間での自らの権威を固め、モスクワとウラジーミルの位を結びつけた。
1389年、死に際して、彼はこれまでの慣例を破り、ハンの同意を得ずに、息子ヴァシーリー1世を後継者に指名した。遺言状の中で、ウラジーミル大公国をモスクワの世襲地と断言し、将来ハン国が動揺することがあれば貢納を停止せよと指示した。子にはヴァシーリー1世のほか、ユーリー、アンドレイ、ピョートル、コンスタンチンらがいる。
同じ年に亡くなった人物
- アレクサンドレ1世 (イメレティ王) (1389年没)
- ヨハンネス・リヒテナウアー (1389年)
- Yakub Celebi (1389年)
- ハヤム・ウルク (1389年)
- ヴィルヘルム1世 (バイエルン公) (1389年没)
同じ地域に関係する人物
- ボリス・アンドレーエフ (1982年没)
- ロマン・カルメン (1978年没)
- ヴァシリー・アバエフ (2001年没)
- ラーザリ・カガノーヴィチ (1991年没)
- アナトーリイ・ドニェプロフ (1975年没)