伝記
ハシント・ベナベンテ・マルティネスは、1866年8月12日にマドリードで生まれたスペインの劇作家である。父マリアノは著名な小児科医で、母はベナンシア・マルティネス、ハシントは3番目の子だった。長兄のアベリーノは父と同じ医師の道を進んだ。近くの教区教会で洗礼を受け、サン・ホセ学院で学んで、中等教育を終えると法学の勉強に進んだ。1885年に父が亡くなり、遺産で経済的な余裕を得ると、法学をやめて文学に打ち込み、フランスやロシアを旅した。しばらくサーカスの興行主を務めたとされ、イギリス人の空中ブランコ乗りに恋をして自らも舞台に立ったという説もあるが、本人は常に否定していた。生涯独身で、多くの資料は同性愛者だったとしているものの、本人がそう公言したことはない。
1892年に最初の作品『幻想劇場』を出し、翌年には詩集、短編集、評論集を続けて発表した。俳優で劇場経営者のエミリオ・マリオとの友情により、劇場への道が開けた。1894年の最初の上演作『他人の巣』は成功しなかったが、のちに評論家はその新しさを観客も批評家も理解できなかったためだと指摘している。1896年の『知られた人々』では王政復古期の上流階級を攻撃したものの、批判はしだいに穏やかな非難に変わっていった。1899年には、芸術本位の上演を目指してマドリードに芸術劇場を創設し、バリェ=インクランも協力した。32歳でもう知られた作家になっていたが、バリェ=インクランと不和になったのちは、別の文学サロンを開いた。
新世紀に入って成功が訪れ、『土曜の夜』(1903年)、『秋のバラ』(1905年)、『作られた利害』(1907年)が当たりをとった。『作られた利害』は代表作とされる。観客が作者を劇場から文字どおり肩に担ぎ出した夜もあったと伝えられ、ウナムーノやオルテガ・イ・ガセットのような手ごわい批評家からも承認を得た。社会批評に基づく現実的な劇へと演劇を引き戻し、演説調の節をつけたせりふを散文的にし、メロドラマを喜劇に、公式的だったものを経験に基づくものに、衝動的な行動を対話の形に変えた人物と評される。「98年世代」の1人でもある。
1912年にスペイン王立アカデミーの会員となり、1913年末には農村劇『ラ・マルケリーダ』で最大の成功をおさめた。第一次世界大戦中はドイツびいきを表明して反感を買い、1918年には保守党から下院議員になった。1922年に母を亡くしたのち、劇団の芸術監督としてアルゼンチンへ向かう途中でノーベル文学賞の受賞を知り、1923年7月にハバナ経由で帰国して、各地で歓迎を受けた。1924年にはマドリードの名誉市民となり、エジプトや聖地、中東、ロシアも訪れた。自由主義的な君主主義者で、社会主義には批判的だったとされる一方、1933年には、ソ連友の会の共同創設者にも名を連ねた。
内戦の間は、はじめマドリードに、のちにバレンシアに留まり、人民戦線政府の当局から繰り返し顕彰され、戯曲『作られた利害』のクリスピン役を自ら舞台で演じることさえあった。戦後はそのためにきびしい立場に置かれ、本人は、立場は死の脅しのもとで強いられたものだと繰り返し弁明した。一方で、フランコ政権を消極的に支持したとする記述もあり、資料の間で食い違いがある。生涯に172の作品を残し、1954年7月14日に87歳で死去した。
同じ年に亡くなった人物
- ヴィルヘルム・シュミット (民族学) (1954年没)
- アリスティデス・デ・ソウザ・メンデス (1954年没)
- ウィニフレッド・マクネアー (1954年没)
- レオン・ジュオー (1954年没)
- オスカー・シュトラウス (1954年没)
同じ地域に関係する人物
- フリアン・ベレンデロ (1995年没)
- フアン・ルイス・デ・アラルコン (1639年没)
- アントワーヌ・ド・グランヴェル (1586年没)
- エンリケ・リステル (1994年没)
- ルイス・デ・モリナ (1600年没)