伝記
ドロテアは、初代ボスニア王妃となった人物で、ボスニア語風にドロスラヴァとも呼ばれる。第二次ブルガリア帝国のツァーリ、イヴァン・スラツィミルの娘で、母はイヴァンの従妹で二番目の妃にあたるアンナ・バサラブである。アンナはワラキア公ニコラエ・アレクサンドルの娘で、ドロテアは父方ではブルガリアの王家シシュマン家、母方ではワラキアのバサラブ家の血を引く。きょうだいに、ヴィディン帝国の最後の統治者となったコンスタンティン2世アセンがいる。生年は分かっておらず、没年は1390年ごろとされる。
1365年、ハンガリー王ラヨシュ1世がイヴァン・スラツィミルの帝国の首都ヴィディンを占領し、ドロテアは両親や姉妹とともにとらえられ、中央クロアチアのボシルイェヴォにあるフムニク要塞に投獄された。4年に及ぶ虜囚生活のあいだに、一家はブルガリア正教会からカトリック教会へ改宗させられた。1369年に父は釈放され、ラヨシュ1世の属国の君主として復帰したが、ドロテアら姉妹は、父の忠誠を保証するための名誉ある人質として、ハンガリー宮廷に留め置かれた。ドロテアは王妃コトロマニッチ・エルジェーベトや王母ウォキェテク・エルジェーベトに目をかけられ、マヴロ・オルビニによれば、王妃に女官として仕えていた。姉妹が夭折するなかで、ドロテアはラヨシュ1世にも気に入られるようになった。
ラヨシュ1世に従属する領主の一人だったボスニアのバン、スティエパン・トヴルトコ1世は、おそらくドロテアがクロアチアで虜囚となっていたころに、彼女のことを聞き知っていた。ラヨシュ1世はトヴルトコに彼女との結婚を提案し、自ら彼女の代理として結婚交渉を進めた。1374年12月前半、二人の結婚式が、ハンガリー支配下のスレム地方で執り行われた。会場はおそらくジャコヴォかイリンツィで、祝賀の祭りがイリンツィで開かれたことは確実である。
1377年10月、トヴルトコがボスニア王として戴冠し、ドロテアは最初のボスニア王妃となった。トヴルトコは国政にあたって彼女に協力を求めていたようで、ドロテアは義母イェレナ・シュビッチとともに、夫の発行する特許状の証人となり、これを守ることを誓った。1382年にラグサ共和国に向けて出された特許状には、王や王子とともにドロテアの名が記されている。この王子はおそらく彼女の子で、のちのスティエパン・トヴルトコ2世とみられるが、確かではなく、知られている子はいないとする説明もある。ドロテアは1390年の少し前に亡くなったとみられている。この年にトヴルトコがハプスブルク家と再婚の交渉をしているためである。
同じ年に亡くなった人物
- アブー・バクル・シャー (1390年没)
- ミカエル・パナレトス (1390年)
- ザクセンのアルベルト (1390年没)
- Assar Tabrizi (1390年)
- サアドッディーン・タフターザーニー (1390年没)
同じ地域に関係する人物
- クリン・バン (1204年没)
- スティエパン・トマシェヴィチ (ボスニア王) (1463年没)