伝記
ザクセンのアルベルト(アルベルトゥス・デ・サクソニア)は、中世後期ドイツの哲学者、数学者で、カトリックの司教である。論理学と物理学への貢献で知られる。1320年頃、ヘルムシュテット近郊のリッケンスドルフに、小さな村の農夫の子として生まれた。才能を見込まれてプラハ大学とパリ大学に送られ、学んだ。パリでは文学部の教授にあたる学芸の教師となり、1351年から1362年までこの職にあった。ソルボンヌでは神学も学んだが、学位は受けなかった。1353年にはパリ大学の学長を務めた。
その間の1359年頃に『詭弁論』、1360年頃に『きわめて有益な論理学』を著した。前者は、量化詞や前置詞など、解釈に難しさを生む語を含む文を数多く検討した大部の書である。後者は、体系的でオッカムの立場の重要な点を取り入れて展開していたため、広く読まれる教本となった。論理学ではオッカムの古論理学への注釈を発展させ、『問題集』と呼ばれる一連の著作にまとめている。
1362年以降、アルベルトはオーストリア公ルドルフ4世の使者として、アヴィニョンの教皇ウルバヌス5世の宮廷へ赴き、ウィーン大学の創設を交渉した。交渉は成功し、1365年に彼が初代の学長となった。1366年には、生まれた土地を含むハルバーシュタット司教区の司教(アルベルト3世)に選ばれた。司教として、ブラウンシュヴァイク=リューネブルク公マグヌスと結んで、ヒルデスハイム司教ゲルハルトに対抗したが、1367年にゲルハルトに捕らえられた。1390年、ハルバーシュタットで亡くなった。
アルベルトはビュリダンの弟子で、物理学と論理学の考え方はその教えに形づくられた。パリの自然哲学をイタリアや中央ヨーロッパに広めるのに貢献した。ビュリダンと同じく、言語の批判的な分析と認識論上の実用主義を合わせもち、ビュリダンやマルシリウス・フォン・インゲンとともに、のちに唯名論の主な支持者の一人とみなされた。彼の著作が広く流布したため、地域によっては、ビュリダンやニコル・オレームよりも知られた人物になった。また、運動のインペトゥス理論に、ピロポノスの二段階説に加えて第三の段階を導入した。最初は直線の運動、中間は空気抵抗で軌道が下へそれる段階、最後はインペトゥスが尽きて重力だけが物体を垂直に引く段階である。この理論は、現代の慣性の理論の先駆とされる。
同じ年に亡くなった人物
- ミカエル・パナレトス (1390年)
- ループレヒト1世 (プファルツ選帝侯) (1390年没)
- バハー・アッディーン・ナクシュバンド (1390年(推定))
- キラツァ・マリア (1390年没)
- ジャン1世 (ロレーヌ公) (1390年没)
同じ地域に関係する人物
- ディーデリヒ・フランツ・レオンハルト・シュレヒテンダール (1866年没)
- マルティン・ルター (1546年没)
- オットー・ツー・シュトルベルク=ヴェルニゲローデ (1896年没)
- ハインリヒ10世 (バイエルン公) (1139年没)
- ルートヴィヒ1世 (1650年没)