伝記
ループレヒト1世は、ライン宮中伯(在位1353年〜1390年)で、プファルツ選帝侯としては1356年から1390年まで在位した。1309年6月9日、上バイエルン公でライン宮中伯のルドルフ1世と、ローマ王アドルフの娘メヒティルトの四男として生まれた。アドルフとルドルフ2世の弟にあたる。
1319年に父が亡くなったとき、ループレヒトはわずか10歳だった。母や兄のアドルフ、ルドルフ2世とともに、ナッサウ伯ヨハンの摂政のもとに置かれた。叔父のルートヴィヒがプファルツを占領して戦争になったが、母が和解を拒んだため、交渉が進んだのは母の死後だった。1329年のパヴィア協定でプファルツの独立が認められ、ループレヒトと兄ルドルフ2世はまず甥とともにこの地を治めたが、1338年に領土を分けた。ループレヒトはレンゼの選帝侯会議に加わった。1350年には、ナミュール侯ジャン1世の娘エリザベート(1330年〜1382年)と結婚した。
1353年に兄ルドルフ2世が亡くなり、ループレヒトは単独のライン宮中伯となった。皇帝カール4世は上プファルツの一部を「新ボヘミア」としてルクセンブルク家の領地に組み入れようとしたが、1356年の金印勅書により、ライン宮中伯は神聖ローマ帝国の7人の選帝侯の1人に定められ、以後プファルツ選帝侯と呼ばれる。1357年にはカイザースラウテルンを取り戻し、ボランデン領を足がかりにして、ツヴァイブリュッケン・ビッチュ伯領の全域を少しずつ支配下に戻した。1376年、皇帝がヴェンツェルの選出を確実にするため、オッペンハイムなどの土地を返し、多額の金を支払った。それでも1379年には、ライン地方の選帝侯4人が教皇のために結んだ同盟に加わっている。
1385年にベルク公ヴィルヘルム1世の娘ベアトリクス(1360年〜1395年)と再婚した。翌1386年、ハイデルベルクに大学を創立した。帝国でプラハ大学、ウィーン大学に次ぐ3番目の大学で、ループレヒトの名を冠した「ループレヒト・カールス大学ハイデルベルク」が現在の正式な名称である。創立の背景には、1378年に始まった教会大分裂があった。フランスとソルボンヌがアヴィニョンの教皇を支持する一方、プファルツはローマの教皇を強く支持した。ループレヒトと顧問のマルシリウス・フォン・インゲンらには、ライン地方の学生が国外へ出て多額の費用を使うのを避けたい思いもあり、ハイデルベルクに大学を設けた。
学校に通ったことはなかったが、教養があり敬虔だったと評される。ノイシュタット・アン・デア・ヴァインシュトラーセに修道院を創設し、その創設文書では、一族の墓所としてだけでなく、喜ばしく敬虔なミサを頻繁に行うことも定めた。ユダヤ人の医師ゴットリープを気に入り、領内でのユダヤ人迫害を禁じたともいわれる。どちらの結婚でも子は生まれず、1390年2月16日、80歳で亡くなった。選帝侯位は、兄アドルフの子である甥のループレヒト2世が継いだ。
同じ年に亡くなった人物
- バハー・アッディーン・ナクシュバンド (1390年(推定))
- Assar Tabrizi (1390年)
- ロバート2世 (スコットランド王) (1390年没)
- ザクセンのアルベルト (1390年没)
- アレクシオス3世 (1390年)
同じ地域に関係する人物
- エゴン・クレプシュ (2010年没)
- ループレヒト (プファルツ=フェルデンツ公) (1544年没)
- クリスティアン2世 (プファルツ=ツヴァイブリュッケン=ビルケンフェルト公) (1717年没)
- ヴィルヘルム・アドルフ・ツー・ヴィート (1907年没)
- ルートヴィヒ4世 (プファルツ選帝侯) (1449年没)