HISTORICAL PERSON · 1394年没

アン・オブ・ボヘミア

神聖ローマ皇帝カール4世の娘で、イングランド王リチャード2世の最初の妃。1382年に成婚し、廷臣の助命を嘆願して「善良なアン」と呼ばれた。ボヘミア文化を持ち込み、1394年にペストで27歳で死去した。

生涯
1394年没
死亡地
イギリス連邦(リッチモンド・アポン・テムズ区 / Sheen Priory)
出生地
チェコ共和国(プラハ)
出典
世界地図
イギリス連邦(リッチモンド・アポン・テムズ区)

伝記

アン・オブ・ボヘミアは、1366年7月11日にプラハで生まれ、イングランド王リチャード2世の最初の妃となった人物である。父は神聖ローマ皇帝でボヘミア王のカール4世、母は4番目の妃エリーザベトで、ポンメルン公の娘である。ローマ王でボヘミア王のヴェンツェルの異母妹で、のちの皇帝ジギスムントの同母姉にあたる。ドイツ語ではアンナ・フォン・ベーメンと呼ばれる。幼いころは、主にプラハ城で、異母兄ヴェンツェルの庇護のもとで育った。

1378年に父が亡くなり、教会大分裂が起こると、ローマ教皇ウルバヌス6世は、アンをイングランド王リチャード2世の妃にと強く勧めた。当初イングランドは、持参金を目当てに、ミラノの僭主ベルナボ・ヴィスコンティの娘カテリーナとの縁談を進めていたが、ウルバヌス6世がそれをやめさせてまで、アンの縁談を推した。教皇庁が分裂するなかで、支持者である神聖ローマ帝国とイングランドの結びつきを強めるためであった。異母兄ヴェンツェルも、ローマで皇帝の戴冠式を挙げるためにイングランドの支援を当てにして、この結婚を後押しした。結婚の契約は1381年5月1日に結ばれ、ワット・タイラーの乱のためにアンのイングランド行きは遅れたが、アンは同じ年のうちにプラハを出発した。12月にカレーからドーバー海峡を渡り、1382年1月20日にウェストミンスター寺院で結婚式を挙げた。

この結婚はイングランドにとって損が多いと見られ、不評であった。持参金は入らず、逆に結婚の費用をイングランドが負担し、その金はヴェンツェルに流れた。ボヘミアが百年戦争でフランスとの戦いを支援するわけでもなく、アンの従者や女官たちは宮廷で浪費して国民に嫌われた。アンに子供が生まれないことも不評の種となった。それでもアンとリチャード2世は仲睦まじい夫婦であったといわれる。1388年の非情議会で、国王の側近たちが処刑や追放を受けたとき、リチャード2世の信任が厚いサイモン・バーリーが処刑の名簿に載っていることを知ったアンは、訴追派貴族の一人アランデル伯リチャード・フィッツアランの前に涙ながらに跪いて助命を嘆願した。訴えは聞き入れられず、バーリーは処刑されたが、アンはこの行動から「善良なアン」と呼ばれたという。アンは華やかな宮廷文化をもたらし、ボヘミアから彩色写本を持ち込んで、イングランドでも流行した。チェコ語、ラテン語、ドイツ語に加え、英語とフランス語も身につけ、聖書にも精通していたため、リチャード2世から大切な伴侶として扱われ、アンの存命中は王も感情を抑えることができたとされる。

アンは1394年6月7日、ペストのために27歳で世を去り、ウェストミンスター寺院に葬られた。リチャード2世との間に子はなかった。リチャード2世は3年後の1397年に、フランス王シャルル6世の当時7歳の娘イザベラと再婚した。しかしアンを失った衝撃は大きく、葬儀に遅れたアランデル伯に激怒して杖で殴り倒し、悲しみのあまり、アンと過ごしたシーン離宮の取り壊しを命じるなど、感情を抑えられなくなった。以後、訴追派貴族への復讐や専制に走っていった。アンがチェコ語に訳された聖書を持っていたことが、ジョン・ウィクリフによる英訳聖書作りの動機となり、プラハ大学からオックスフォード大学への留学生が増え、ウィクリフの思想がボヘミアに伝わって、のちのヤン・フスの宗教改革につながったともされる。

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