HISTORICAL PERSON · 1394年没

長慶天皇

日本の第98代天皇で、南朝第3代。1368年に住吉行宮で践祚し、宗良親王の私撰集『新葉和歌集』を准勅撰集とし、『源氏物語』の注釈書『仙源抄』を著した。在位が公認されたのは大正15年である。

生涯
1394年没
死亡地
—
出生地
—
出典
世界地図
位置情報未登録

伝記

長慶天皇は、日本の第98代天皇で、南朝の第3代にあたる。諱は寛成(ゆたなり)という。1343年に後村上天皇の第一皇子として生まれた。母は二条師基の猶子である近衛勝子(三位局)である。生い立ちには不明な点が多く、親王宣下ののちに陸奥太守に任じられたらしいが、皇太子に立てられたかどうかは確かな証拠がない。

1368年3月、26歳で摂津の住吉行宮に践祚し、間もなく弟の熙成親王を東宮とした。南朝は北畠親房ら重鎮を失って弱体化が著しく、天皇の事績にも明らかでないことが多い。天皇は北朝に強硬な人物だったと考えられ、先代までたびたび持ち上がった和睦交渉は、この代に入って全く途絶えた。践祚の後間もなく、和平派の楠木正儀が北朝に降ったため、同年12月に吉野へ退き、翌1369年4月には河内天野の金剛寺に移った。南朝軍の主力には、正儀の同族の和田正武と橋本正督を起用し、それぞれを河内国主、和泉国主に任じた。しかし1373年8月、正儀らの先導で細川氏春と赤松光範の軍から総攻撃を受け、四条隆俊ら70人余りが討ち取られて、再び吉野に戻った。1374年の冬には伯父の宗良親王が信濃から吉野に入り、以後は歌合がさかんに催された。若いころから和歌に優れ、1375年に『五百番歌合』、1376年に『千首和歌』(322首が現存)がある。1379年9月までには大和の栄山寺に移った。1381年10月には宗良親王の私撰和歌集を准勅撰集とし、これが『新葉和歌集』である。同じ年に、『源氏物語』の注釈書『仙源抄』も著した。

譲位の時期ははっきりしないが、1383年10月27日付の綸旨が在位を確認できる最後の史料とされ、その後まもなく弟の東宮、のちの後亀山天皇に譲位したと考えられている。背景には、1382年閏1月に正儀が南朝に帰参したのを受けて和平派が力を得て、穏健な後亀山を擁立する動きがあったとみられている。譲位後の2年ほどは院政を敷いた証拠があり、1385年9月には「太上天皇寛成」の名で高野山の丹生社に宸筆の願文を納めたが、翌1386年4月に二見越後守あてに下した院宣を最後に、史料の上から姿を消す。その後は髪を下ろし、禅宗に帰依したようである。1392年閏10月に南北朝が合一したときも、後亀山天皇に同行して京都に入った形跡はない。『大乗院日記目録』によると、1394年8月1日に52歳で亡くなった。晩年の地には、吉野にとどまったとする説、紀伊の玉川里とする説、和泉の大雄寺の塔頭の長慶院とする説、京都の天竜寺の塔頭の慶寿院とする説などがある。

陵は、宮内庁により京都の天竜寺の近くの嵯峨東陵に定められている。譲位後に南朝勢の協力を求めて各地を潜幸したという伝説があり、全国に御陵の伝説地が点在し、南部煎餅の祖とする伝承もある。皇子には、円満院門跡となった行悟や、南禅寺の住持となった海門承朝らがいる。

天皇の在位については、近世以来、在位したか否かをめぐる議論が続いた。1911年に明治天皇が南朝を正統とする勅裁を下したときも、在位は認められないままだった。大正時代に入って、八代国治と武田祐吉の実証的な研究が決定的な在位説と評価され、宮内省の調査を経て、1926年10月21日に皇統加列の詔書が発布された。こうして、長慶天皇の在位の事実が公認された。

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