伝記
レオニード・アレクサンドロヴィチ・ゴヴォロフは、1897年2月、ヴャトカ県(現キーロフ州)のブトゥイルキ村に農家の長子として生まれた。父アレクサンドルははしけの船員から船会社の船員となり、のちエラブガの学校の職員となった。母マリヤは主婦で、4人きょうだいの長男であった。エラブガの実科学校を卒業して、1916年にペトログラード工科大学の造船分校に入ったが、同年12月にロシア帝国軍に召集され、コンスタンチン砲兵学校に送られた。1917年に卒業し、トムスクの独立迫撃砲中隊の下級将校となったが、1918年3月に除隊し、エラブガの企業に勤めた。
1918年に白軍がエラブガを奪うと、元陸軍少尉の彼は動員されてコルチャーク麾下の軍に加わった。後年のソ連の書類には、動員されたと書いている。やがて部下とともに白軍を脱走し、反白軍の義勇軍に加わった。1920年1月に赤軍がトムスクに入城すると赤軍に志願し、東部戦線と南部戦線で戦って砲兵大隊を指揮した。ヴラーンゲリ将軍の軍との戦いでは戦功を上げ、1920年には二度負傷している。内戦後の約10年は第51ペレコプ師団に勤め、砲兵大隊長や連隊長を務めた。1938年に参謀本部軍事アカデミーを卒業し、ジェルジンスキー名称砲兵アカデミーで講師となった。ソ・フィン戦争では要塞破壊と砲兵運用の専門家として前線に派遣され、第7軍の砲兵参謀長としてマンネルハイム線の突破に大きく貢献した。1940年に砲兵副総監、1941年5月に砲兵アカデミー校長に任命された。
独ソ戦が始まると、西部方面軍の砲兵部長などを歴任し、1941年10月からはモスクワへの接近経路を守る第5軍の司令官となった。砲兵出身者が諸兵科連合軍の司令官に任命されるのは異例だったが、モスクワの防衛と反攻のさい、軍をよく統御した。1942年4月にレニングラード戦線の軍集団司令官、6月に同戦線の司令官となり、封鎖されたレニングラードの状態改善とドイツ軍の釘付けに努めた。1943年1月にはヴォルホフ戦線の部隊と共同して封鎖を解除した。1944年のクラスノセロ・ロプシャ作戦では敵の最も強固な地区を突破し、続いてヴィボルグ作戦に参加したのち、タリン攻勢作戦でエストニアを占領して、モーンズイド諸島に上陸した。同年10月からは、クールラントで包囲されたドイツ軍の攻略も統轄し、1945年5月に降伏を受け入れた。1945年にソ連邦英雄の称号を受けた。
戦後はレニングラード軍管区司令官、軍事省次官などを歴任し、1948年に国土防空軍司令官、1954年5月には国土防空軍総司令官兼国防次官に任命された。1952年からは共産党中央委員候補でもあった。1953年のスターリンの葬儀では、ソコロフスキー参謀総長とともに、勝利勲章を運んだ。しかし狭心症から心筋梗塞を患うことがたびたびで、1955年3月19日、心臓発作によりモスクワ近郊の療養所で没した。遺体は赤の広場のクレムリンの壁に葬られた。モスクワ、サンクトペテルブルク、エラブガなどの通りにその名がつけられている。勝利勲章、レーニン勲章5個、赤旗勲章3個などを受け、息子ウラジーミルは上級大将でソ連邦英雄となった。
同じ年に亡くなった人物
- William Alexander Smith (1955年没)
- エドウィン・バークレー (1955年没)
- ロドルフォ・グラツィアーニ (1955年没)
- 黄賓虹 (1955年没)
- William Hamilton (1955年没)
同じ地域に関係する人物
- オレグ・ペンコフスキー (1963年没)
- イヴァン4世 (1584年没)
- Yevgeny Babich (1972年没)
- イヴァン・ペトロフスキー (1973年没)
- オレグ・ロボフ (2018年没)