伝記
イヴァン4世は、1530年8月25日にクレムリンのテレムノイ宮殿で生まれた。長く後継者のいなかったヴァシーリー3世にとって待望の嫡男だったが、父は1525年に正教会の猛反対を押し切って不妊の先妻を追放し、母エレナを妻に迎えていた。エルサレム総主教はこの結婚を「邪悪な息子をもつだろう」と呪ったとされる。エレナはクリコヴォの戦いで敗れたママイの子孫と言われ、イヴァンは勝者ドミートリー・ドンスコイと敗者双方の血を引くことになる。1533年12月に父が死去し、3歳で大公に即位した。当初は貴族会議、次いで母后エレナが摂政となり、単一通貨モスクワ・ルーブルの導入や辺境防衛の強化を進め、大公位を狙う二人の叔父も失脚させた。しかし1538年にエレナが死去すると貴族たちに政権を奪われ、8歳のイヴァンは無視されるようになった。
貴族の権力争いで府主教イオシフが廃位されると、イヴァンの教育係のマカリオスが府主教になった。教会の権威が弱まっていた時期で、マカリオスは強大な保護者を必要としたため、イヴァンには大公としてよりも「神に選ばれたツァーリ」としての教育が施された。聡明でよく学び、信仰心篤い青年に成長した一方、鳥獣を虐殺したり貴族の子弟と市内で暴れまわったりする二面性も見せた。13歳のころには、摂政の一人だった名門貴族アンドレイ・シュイスキーを処刑している。1547年1月16日、生神女就寝大聖堂で史上初めて「ツァーリ」として戴冠した。戴冠式にはモノマフの帽子が使われ、東ローマ帝国との連続性が強調された。同年6月にモスクワ大火に伴う混乱で母方のグリンスキー家が失脚すると親政を開始し、戴冠の1か月後にはザハーリン家のアナスタシア・ロマノヴナを妻に迎えた。
アダシェフやシリヴェーストル司祭ら有能な顧問団に助けられ、1549年頃から本格的な改革に着手した。嘆願局や全国会議(ゼムスキー・ソボル)を創設し、1550年には法令を発布し、ロシア初の常備軍ストレリツィも新設した。1552年10月には10万を超える軍勢でカザンを攻めて陥落させ、カザンのハーン、ヤディゲル・マフメトは捕らえられて屈服し、1553年にモスクワで正教に改宗した。カザンを滅ぼせなかった罪への赦しを乞うため生神女庇護大聖堂を建立したが、これが現在の聖ワシリイ大聖堂と呼ばれている。1556年にはアストラハン・ハン国を併合し、ヴォルガ川全域がロシアの支配下に入った。1553年春には生死に関わる大病を患い、貴族の一部が幼い長子ドミートリーへの宣誓を拒んだ。快癒して巡礼に出たが、帰路の事故で生後8か月のドミートリーを失っている。
1558年にはリヴォニア戦争を始めた。当初は優位に進んでナルヴァを獲得したが、周辺の列強が介入して戦争は北欧全域に広がり、完全な失敗に終わって国内を激しく疲弊させた。強引な圧政や大規模な粛清、恐怖政治も生じ、経済は低迷した。農民の移動を禁じた「禁止年実施令」は農奴制の下地となった。ツァーリの在位は1547年から1574年までと、1576年から死去する1584年3月18日までである。治世末期にはシビル・ハン国の征服事業も順調に進んでいた。大貴族層は権力を保ち、イヴァンの死後にツァーリ権力が弱まると、ロマノフ朝の成立までモスクワ国家を実質的に支配した。後のソビエト連邦の最高指導者スターリンにも影響を与えたという。
同じ年に亡くなった人物
- トマス・ノートン (1584年)
- 李珥 (1584年没)
- ペドロ・ポンセ・デ・レオン (1584年)
- エーリヒ2世 (ブラウンシュヴァイク=カレンベルク=ゲッティンゲン公) (1584年没)
- フランソワ (アンジュー公) (1584年没)
同じ地域に関係する人物
- ガザンファル・ムサベコフ (1938年没)
- Leonid Martynov (1980年没)
- ヴァレンティン・セローフ (1911年没)
- フェリックス・ジェルジンスキー (1926年没)
- アレクサンドル・ポクルィシュキン (1985年没)