伝記
ジェームズ・ディーンは、1931年2月8日、インディアナ州マリオンに生まれたアメリカ合衆国の俳優である。愛称はジミー。父ウィントンはのちにロサンゼルスの退役軍人病院で歯科技工士となり、母ミルドレッドとの結婚は行きずりの恋から始まったもので、父は息子の誕生を喜ばなかったと伝えられる。父に顧みられない息子に、母は深い愛情を注いだという。ディーン自身は、父の家系はメイフラワー号にさかのぼり、母の家系には先住民の血が半分入っていると語っていた。1937年、六歳のとき、父が歯科技工士になるためロサンゼルス近郊のサンタモニカに越してきた。九歳のとき母が卵巣がんで亡くなると、父は出身地インディアナ州フェアマウントで農場を営むクエーカーの姉夫婦に彼を預け、少年はそこで育てられた。
高校時代から演劇に興味を持ち、野球やバスケットボールでも活躍して、州の朗読コンテストでは優勝した。カリフォルニア大学ロサンゼルス校の演劇科で学んだのち、俳優の道を追い求めて中退し、ニューヨークに移った。そこでテレビ番組のいくつかに出演し、この頃アンドレ・ジッドの『背徳者』に心酔して、ハリウッドで映画スターになることを夢見るようになった。『底抜け艦隊』などで端役をこなしたあと、1955年に『エデンの東』のキャル・トラスク役で初めて主役を演じて認められ、この役でアカデミー賞主演男優賞にノミネートされた。続けて同年の『理由なき反抗』で主演し、『ジャイアンツ』では準主役を演じて、再びノミネートされた。
原作者のジョン・スタインベックは、気難しく反抗的で感情的でありながら冷静な面もあり、シニカルで傷つきやすい彼を、主人公キャルの役に推薦したという。ディーンはメソッド演技と台本にとらわれないアドリブで知られ、『エデンの東』では不仲な父を演じるレイモンド・マッセイに嫌われるよう、撮影中ろくにあいさつもせず横柄にふるまい、本気で怒らせたこともあった。俳優仲間から「異端児」と呼ばれることも多かった。
自動車への情熱は十六歳のとき叔父から与えられたオートバイに始まり、スポーツカーを手にしてからは休日に地元のレースへ出るほどになった。配給会社のワーナーは『ジャイアンツ』の撮影に向けてレース活動を禁じていた。撮影が終わって一週間後の1955年9月30日、サリナスのレースへ向かうため、整備士ラルフ・ウッタリックを乗せて愛車のポルシェ・550スパイダーで州道を走っていた午後5時15分ごろ、ショラム近郊の分岐点で、交差点を転回していたフォードに衝突した。ウッタリックは車外に投げ出されて骨折し、フォードの運転手も軽傷で済んだが、ディーンは車内に閉じ込められ、首の骨を含む複雑骨折や内臓損傷でほぼ即死だった。事故の原因は当初、彼の速度超過とされたが、のちに車の残骸や体の位置が違反速度と矛盾すると指摘された。ただし、事故の約二時間前に速度違反の切符を切られていたのも事実である。
10月8日、故郷フェアマウントの教会で葬儀が営まれた。棺は重傷を隠すため閉じられたままで、約六百人が参列し、さらに二千四百人のファンが外に集まったという。遺体は同地の墓地に葬られ、今も献花が絶えない。『理由なき反抗』は死の約一か月後の10月27日に公開され、遺作の『ジャイアンツ』は1956年10月10日に公開された。最初の長編出演でアカデミー賞にノミネートされたのは五人しかおらず、死後に二度ノミネートされたのは彼だけである。芸歴は四年、主演俳優になって半年足らずだったが、そのきわめて短い経歴と突然の死は、彼を青春の象徴とした。
同じ年に亡くなった人物
- アイラ・ヘイズ (1955年没)
- ハンス・ブリューアー (1955年没)
- カルメン・ミランダ (1955年没)
- エメット・ティル (1955年没)
- John H. Jones (1955年没)
同じ地域に関係する人物
- ドロシー・カミンゴア (1971年没)
- ジョージ・ポリア (1985年没)
- エドワード・ドミトリク (1999年没)
- ジェームズ・スティーブンソン (1941年没)
- グレン・モリス (1974年没)