伝記
トーマス・マンは、1875年6月6日に北ドイツの商業都市リューベックで生まれ、1955年8月12日にスイスのチューリヒで没した小説家、評論家である。『ブッデンブローク家の人々』『魔の山』などで知られ、1929年にノーベル文学賞を受けた。兄ハインリヒ、長男クラウスも著名な作家である。
生家は18世紀末からこの地で商家を営む豪商の家系で、祖父は市民代表を務め、父は市参事会議員として市長に次ぐ地位にあった。母ユーリアはブラジルで貿易商を営んだ家の娘で、ポルトガル系ブラジル人を母に持つ、異国的な風貌の女性だった。兄ハインリヒが第一子、トーマスが第二子で、三男二女のうち二人の妹は、結婚後にともに自殺している。1889年にギムナジウムの実科コースに入ったが成績は振るわず、落第も重ねた。一方で詩作は早くから始め、シラーの詩やワーグナーの楽曲に感銘を受けた。1891年に父が没すると商会は解体され、一家は翌年ミュンヘンに移った。マンはなお2年リューベックに残り、1894年に高等学校を中退してミュンヘンに移った。
保険会社の見習いとして働くかたわら小説を書き、処女作の短編『転落』が文芸雑誌に載ると、詩人デーメルから賛辞の手紙を受けた。これで筆で立つ決意を固め、会社を辞めた。1897年に兄とローマに滞在した折、一家の歴史を題材にした小説を思い立ち、親戚を訪ねて証言を集め、約2年半をかけて1901年に『ブッデンブローク家の人々』を完成させた。翌年に出版されると広く読まれ、のちノーベル賞の受賞理由にも挙げられた。1903年に『トーニオ・クレーガー』を発表し、1905年にはミュンヘン大学の数学教授の娘カタリーナ・プリングスハイムと結婚して、六人の子をもうけた。朝9時からの3時間を執筆にあて、家では「魔術師の時間」と呼んで静寂を守ったという。1912年に『ヴェニスに死す』を発表した。同じ年、療養所にいた夫人を見舞った体験が、のちに12年を費やした『魔の山』(1924年)になった。
第一次世界大戦ではドイツを擁護し、兄らの批判を受けて一時仲違いをしたが、1922年に和解した。戦後はヴァイマル共和政への支持を訴え、1926年には旧約聖書に材をとる『ヨセフとその兄弟』に着手した。1930年のベルリンでの講演でナチズムの危険を警告し、1933年にヒトラーが政権を握った際、スイス滞在中のマンは帰国せずそこに留まった。1936年にドイツ国籍と財産を奪われ、同年チェコスロバキア国籍を得た。1938年にはアメリカに移ってプリンストン大学の客員教授となり、亡命者を支援した。1940年からはBBC放送を通じて、ドイツ国民にナチスへの不服従を訴え続けたが、国外で裕福に暮らしながらの反独活動は、戦後のドイツで賛否を呼んだ。1944年にアメリカ市民権を得て、1947年に『ファウストゥス博士』を発表した。
1952年にヨーロッパに戻り、チューリヒ近郊のキルヒベルクに移り住んだ。1953年に22年ぶりで故郷リューベックを訪れ、1955年3月にはリューベック名誉市民に選ばれた。同年7月にオランダで病に倒れ、8月12日に冠状動脈血栓症で亡くなった。埋葬式にはヘルマン・ヘッセが別れの言葉を述べた。死後20年は開封しないという遺言にしたがい、1975年に初めて開かれた日記も残されている。
同じ年に亡くなった人物
- エドワード・カスナー (1955年没)
- アーサー・ショウ (1955年没)
- レオニード・ゴヴォロフ (1955年没)
- マリア・イスキエルド (1955年没)
- ヨアヒム・ワッハ (1955年没)
同じ地域に関係する人物
- ヨーゼフ・ルートヴィヒ・ラーベ (1859年没)
- カタリーナ・マン (1980年没)
- Heinz Stettler (2006年没)
- ヤコブ・クーン (2019年没)
- ヨーゼフ・シュミット (1942年没)