伝記
ステファン・ダビシャは、1395年9月8日に没したコトロマニッチ家の人物で、1391年3月から亡くなるまでボスニア王として在位した。初代の王トヴルトコ1世の跡を継いで選ばれ、当初はボスニア王国の一体性を保って、ハンガリー、ナポリ、さらにはオスマン・トルコにも抵抗した。しかし治世の後半には有力貴族が台頭し、ボスニアの領土と影響力は大きく失われた。
ダビシャとコトロマニッチ家の関係ははっきりしない。書簡で彼は自らをトヴルトコ1世の弟と称したが、文字どおりには受け取れず、ただ親族であったことは確かである。16世紀のラグーザの年代記作者の影響で、現代の歴史学は、ダビシャをトヴルトコの父ヴラディスラヴの兄弟ニノスラヴの庶子と説明することが多い。この年代記作者によれば、ダビシャはネレトヴァ地方を治め、トヴルトコの弟ヴクを支持して、1366年にトヴルトコの廃位につながった反乱に加わった。ただし、当時の記録の反乱者のなかに彼の名は見えない。1367年にトヴルトコが勝利すると、ダビシャは追放されて領地を奪われ、以後の20年ほどは目立たずに過ごした。トヴルトコは1377年に自ら王位に就いた。
1380年代の末までに、ダビシャはトヴルトコ1世と和解したらしく、1390年6月にはスチェスカの宮廷にいたことが記録されている。1391年3月10日にトヴルトコが急死すると、事情は不明ながら、ダビシャは王に選ばれた。彼はすぐに隣のヴェネツィアとラグーザの当局に知らせ、両者は6月1日と15日に即位を承認した。ハンガリー王ジギスムントとナポリ王ラディズラーオも承認した。前任者にならって、王名ステファンを用いた。最初の数年、彼はトヴルトコのボスニア王国の一体性を守った。そこにはボスニア本土のほか、クロアチア、ダルマチア、ザフムリェ、ラシュカが含まれていた。ラグーザが、ダルマチアの都市をハンガリー王室のもとへ戻らせようとした試みは失敗に終わった。ナポリ王ラディズラーオは、ダビシャのハンガリー王位をめぐる支援が前任者ほど有効でないとして、自らダルマチアとクロアチアの権利を主張しはじめたが、ダビシャはジギスムントとの争いでラディズラーオの側にとどまった。
ジギスムントは、ボスニアとの戦争を十字軍と認めさせようと、教皇ボニファティウス9世の承認を得た。ダビシャ自身はローマ・カトリックだったが、王国にはボスニア教会とセルビア正教の信徒が多く、ジギスムントは教皇への書簡で彼らを異端、離教者と呼んだ。この攻勢がどうなったかは分からない。1392年の春、ダビシャの軍はオスマン・トルコの侵入を破り、1年のうちにジギスムントと休戦に合意した。このころから国内の事情は悪化しはじめ、貴族が初めて王から独立して行動し、まずザフムリェのサンコヴィッチ家が力を強めた。ダビシャはその力を抑えたが、流れは覆らず、王権は弱まっていった。1394年6月、ダビシャは、ラディズラーオを熱心に支持するヨハン・ホルヴァトと公然と対立した。ジギスムントはその不和につけ込んでドボイの戦いでホルヴァトを破って処刑し、まもなく、廃墟となった町の近くの陣営で、ダビシャはジギスムントに服従した。クロアチアとダルマチアを手放し、家臣たちの同意のもと、ジギスムントを封建的な宗主とし、ボスニア王位の継承予定者と認めた。なぜこれほど厳しい条件をのんだのかは分からない。
同じ年に亡くなった人物
- アカマピチトリ (1395年没)
- コンスタンティン・ドラガシュ (1395年没)
- アルブレヒト3世 (オーストリア公) (1395年没)
- ギヨーム・ティレル (1395年没)
- マーリア (ハンガリー女王) (1395年没)
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