HISTORICAL PERSON · 1398年没

朱元璋

明の初代皇帝で、廟号は太祖、洪武帝と呼ばれる。貧農の家に生まれ、托鉢僧を経て紅巾軍に身を投じ、郭子興のもとで頭角を現した。南京を本拠に陳友諒の攻撃を退けて江南の覇権を争い、1368年に即位した。

生涯
1398年没
死亡地
中華人民共和国(江蘇省 / 南京市)
出生地
中華人民共和国(鳳陽県)
出典
世界地図
中華人民共和国(江蘇省)

伝記

朱元璋は、元末の1328年、淮水のほとりの濠州鍾離県(現在の安徽省鳳陽県)に生まれた。父は朱五四、母は陳氏で、6人兄弟の末っ子だった。朱家で8人目の男子であったことから、朱重八と名付けられている。祖父の代から徭役の重さに耐えかねて各地を移り住んだ流民のような貧農の家で、幼い元璋は村の塾に通ったが学費が続かず、地主のもとに牧童として奉公に出た。1344年、17歳のときに淮河一帯が干ばつと蝗害に襲われ、疫病も流行して、父母と長兄が亡くなった。元璋は隣人のつてで皇覚寺の小僧となったが、寺でも食料が尽き、2か月弱で托鉢の旅に出る。乞食同然の暮らしで3年にわたり淮西地方をほぼくまなく回った経験は、のちの争覇戦の大きな助けになったという。

1351年に紅巾の乱が起こると、皇覚寺は反乱軍に通じているとの疑いで元軍に焼き討ちされた。元璋は郭子興のもとに身を投じ、頭角を現して郭の養女の馬氏を妻に迎えた。これが後の馬皇后である。この頃に名を重八から元璋に改め、徐達、常遇春、李善長、劉基らの優れた部下を得た。李善長は、農民から身を起こした漢の高祖劉邦を手本とすれば天下を統一できると説いたという。1355年に郭子興が没すると独立した勢力となり、翌年に集慶路(南京)を落として本拠に据え、部下に推されて呉国公を名乗った。江南の覇権は、陳友諒、張士誠との三つ巴の争いとなった。1363年の鄱陽湖の戦いでは、元璋軍は敗色が濃くなったが、枯れ草と火薬を積んだ船に火を付けて敵艦に突っ込ませ、湖を火の海にして勝機をつかんだ。この戦いの最中に陳友諒は流れ矢に当たって戦死し、大漢は翌年に滅びた。1364年に呉王を名乗った元璋は、1367年に張士誠の本拠の蘇州を陥落させた。

呉元年の1367年10月、徐達を大将軍、常遇春を副将軍とする25万の北伐軍が出発した。軍は山東、河南を平定し、元の首都大都に迫って、皇帝トゴン・テムルは北へ逃れ、のちに応昌で病死した。1368年正月、元璋は即位して元号を洪武、国号を大明とした。建国当初は元の制度を引き継いだが、1380年の胡惟庸の獄をきっかけに中書省を廃止して六部を皇帝直属とし、軍も皇帝直属とし、宦官の専横を抑えるため、宦官が学問をしてはならないとの布告も出した。農業では流民を故郷に帰し、開墾した者にその土地の所有を認めるなどして耕作地を拡大し、国初の5倍にまでなったという。検地を行って土地台帳の魚鱗図冊と戸籍台帳の賦役黄冊を作り、110戸を一単位とする里甲制を実施した。また徴兵制に切り替え、軍戸を管轄する衛所を全国に設けた。

貨幣では洪武通宝を発行したが銅銭が不足したため、不換紙幣の大明通行宝鈔を発行し、これは早々に暴落して失敗に終わった。北方では洪武21年(1388年)に藍玉が率いる明軍が北元のトグス・テムルの軍を破った。倭寇の活動が活発になると日本に使者を送って取り締まりを求めたが、有効な成果は得られず、朝貢以外の海外貿易を禁じる海禁政策を取った。

朱元璋を語るうえで欠かせないのが粛清である。治世には文字の獄、胡惟庸の獄、藍玉の獄、空印事件、郭桓の案が起こり、その過程で多数の無実の人が犠牲になった。皇太子には長男の朱標が選ばれていた。洪武帝は1398年に世を去り、廟号は太祖、諡号は高皇帝とされた。

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