伝記
諸葛瑾は、後漢末期から三国時代の呉に仕えた武将・政治家である。字は子瑜。徐州琅邪郡陽都県の出身で、蜀の諸葛亮の兄にあたる。子に諸葛恪・諸葛喬・諸葛融がいる。名門の琅邪郡諸葛氏に生まれ、若いころ首都に出て『毛詩』『尚書』『左氏春秋』などを学んだ。実母が亡くなると継母に孝養を尽くしたという。後漢末の戦乱を避けて揚州に移り住み、孫権の姉婿である弘咨にその非凡さを見抜かれて孫権に推挙された。孫権は魯粛と同じく賓客として遇し、のちに長史・中司馬とした。建安6年(201年)には歩騭・厳畯とともに呉中に遊び、ともに名声を得て当時の英俊とされた。
孫権の信頼を決定づけたのは、弟をめぐる逸話である。劉備の使者として諸葛亮が訪れた際、孫権から弟を説得して呉に仕えさせられないかと問われると、諸葛瑾は「私が我が国と主君を裏切らないように、弟もまた劉備を裏切らないでしょう」と答えた。孫権はこの言葉に感銘を受け、絶大な信頼を寄せるようになったという。建安20年(215年)には荊州返還を求める使者として益州に赴いたが、弟とは公私を厳しく分け、公式の場で顔を合わせても私的には会わなかった。このときは劉備が「涼州を手に入れたら返す」と答えたため、返還は実現しなかった。建安24年(219年)に関羽討伐で功を挙げて綏南将軍・宣城侯となり、呂蒙の死後は南郡太守となった。劉備が東征の軍を起こすと講和を求める書簡を送ったが受け入れられず、劉備は夷陵で大敗した。諸葛亮の兄であることから内通を疑われた際も、孫権は「子瑜が私を裏切らないのは、私が子瑜を裏切らないのと同じだ」と述べ、変わらぬ信頼を示した。
黄武元年(222年)の江陵の戦いでは、潘璋とともに江陵の救援に向かった。長江の中州に軍を進めたが夏侯尚の火計に敗れ、孫権は用兵に臨機応変さを欠くと不満を持った。しかしその後、浮橋を攻めて魏軍を撤退させ、兵力を失わず国土を守ったことを賞し、諸葛瑾は左将軍・公安督・宛陵侯となった。黄武5年(226年)には襄陽に侵攻して司馬懿に敗れている。黄龍元年(229年)に孫権が皇帝を称すると大将軍に任じられ、左都護・豫州牧を兼ねた。嘉禾3年(234年)には陸遜とともに襄陽へ進軍し、使者が敵に捕らえられて動揺したものの、陸遜の示した策に従い、損害を出さずに撤退した。蜀とは同盟が復活したのち連絡を取り合い、次男の諸葛喬を子のない諸葛亮の養子として蜀に送っている。
孫権の性格をよくつかんでおり、戒めるときも直言せず、諭すように取りなした。孫権に疎まれた虞翻を懸命に弁護して感謝され、赤烏2年(239年)には歩騭と連名で、流刑となった周瑜の次男周胤の赦免を願い出た。歩騭・厳畯・張承とは古くからの親友で、張承には娘を嫁がせた。妻の死後は再婚せず、寵愛する妾の子も育てなかったという。世間では「蜀はその龍(諸葛亮)を得、呉はその虎(諸葛瑾)を得、魏はその狗(諸葛誕)を得たり」と評された。
赤烏4年(241年)の孫権の大攻勢では、歩騭とともに荊州方面で柤中を占領し、損害を出さずに撤兵した。同年閏6月に68歳で病没し、白木の棺に普段着のまま葬り、葬儀は質素にせよと遺言したという。子の諸葛恪が当世に名高いことを孫権は評価したが、諸葛瑾は常にこれを嫌い、家を保つ子ではないと言った。その言葉どおり、建興2年(253年)に諸葛恪が驕慢のために誅殺され、諸葛融も自害して子孫は滅んだ。蜀にいた諸葛喬の子の諸葛攀だけが生き残り、のちに家の再興が許されたという。