伝記
ジョン・オブ・ゴーントは、1340年にイングランド王エドワード3世とフィリッパ・オブ・エノーの子として、フランドルの都市ヘント(英語でゴーント)に生まれた。成人した息子としては3番目で、エドワード黒太子とライオネル・オブ・アントワープが兄、エドマンド・オブ・ラングリーとトマス・オブ・ウッドストックが弟にあたる。1342年にリッチモンド伯となり、1359年に初代ランカスター公ヘンリー・オブ・グロスモントの次女ブランシュと結婚した。この結婚でダービー伯領、リンカーン伯領、レスター伯領も手に入れて富裕となり、のちにランカスター公を称した。イングランド宗教改革の先駆者ジョン・ウィクリフの保護者としても知られる。
1369年に再開した百年戦争では多くの戦いに参加し、1371年に病気で帰国した長兄の黒太子から軍の指揮を引き継いだが、さしたる戦果は挙げられず、1374年に帰国した。国内では老いた父に代わって国政を取り仕切ったが、兄と対立し、1376年4月の善良議会で専制ぶりを非難された。課税の撤回や、宮廷腐敗をもたらした大臣たちの弾劾、父の愛人アリス・ペラーズの追放などが議会で決められた。だが同年6月に議会の後ろ盾だった兄が病死すると巻き返しに出て、翌1377年の議会で決議をすべて無効にし、実権を取り戻した。
1377年に父が亡くなって甥のリチャード2世が即位すると、補佐の評議会の筆頭として実権を振るった。しかし1381年には課税の失策によってワット・タイラーの乱を誘発した。ランカスター公はスコットランドで外交活動をしていて不在だったが、ロンドンの邸宅サヴォイ宮は反乱軍に破壊された。1383年にリチャード2世が親政を始めると、権力から遠ざけられた。リチャード2世に後継ぎが生まれないなか、ランカスター公は男系継承のみを認めるサリカ法の採用を主張したが容れられず、王はマーチ伯ロジャー・モーティマーを王位継承者に指名した。
1386年からはイベリア半島に遠征し、後妻コンスタンスの権利としてカスティーリャ王位を主張したが果たせなかった。王位要求を放棄する代わりに、娘キャサリンをカスティーリャ王子エンリケ(後のエンリケ3世)と結婚させ、10万ポンドの金や年金を受け取ることで妥協して1389年に帰国した。その後は、リチャード2世と訴追派貴族の対立で生じた亀裂の修復に努め、王の信頼を得て1390年にアキテーヌ公位を譲られた。1394年にコンスタンスを失うと、1396年に10年来の愛人キャサリン・スウィンフォードを3度目の夫人とした。その翌年の1397年には、二人の間の4人の庶子が嫡出子に格上げされたが、その条件は王位継承権の剥奪であった。この子孫はボーフォート家として繁栄している。
しかし同年、リチャード2世は弟のグロスター公トマスらを逮捕して殺し、翌1398年には、ランカスター公の息子で訴追派貴族の一員だったヘンリー・ボリングブルックを国外追放した。1399年2月にランカスター公が死去すると、王はランカスター公領の没収を命じた。ボリングブルックは帰国して反乱を起こし、リチャード2世を廃位してヘンリー4世として即位する。ブランシュとの間の7人の子のうち成人したのは1男2女で、その長男がヘンリー4世である。娘のフィリッパはポルトガル王ジョアン1世の妃となった。ヘンリー4世以降のイングランド君主は、みなジョンの子孫にあたる。
同じ年に亡くなった人物
- バルクーク (1399年没)
- イェレナ・グルバ (1399年)
- ペトル・パルレーシュ (1399年没)
- テムル・クトルク (1399年没)
- トマス・モウブレー (初代ノーフォーク公) (1399年没)
同じ地域に関係する人物
- マイルズ・ジョセフ・バークリー (1889年没)
- ジョージ・ヴィリアーズ (初代バッキンガム公) (1628年没)
- エドウィン・ミルズ (アスリート) (1946年没)
- ジョン・ハワード (初代ノーフォーク公) (1485年没)
- ジョン・ウィクリフ (1384年没)