伝記
ジョン・ウィクリフは、1384年12月31日に没したイングランドの神学者である。カトリック教会の腐敗を批判し、神の前での平等を説いたことから、宗教改革の先駆者とされる。生年ははっきりせず、1324年とする記述もあれば、1330年頃とする記述もある。おそらくヨークシャーの生まれで、オックスフォード大学で学んだ。文学士の学位を1356年に得たことから、遅くとも1330年代の生まれと推定される。パリ大学でも神学を学んだとされ、その後、オックスフォードのベリオール・カレッジで、ラテン語の研究と講義を行った。多くの聖職禄を持ちながら、主にオックスフォードに居住して神学教授となり、1371年か1372年に神学博士の学位を受けた。哲学と神学の教授として高く評価され、支持者も反対者も、当時のイングランドで唯一の偉大な神学者とみなしたという。
初代教会時代の清貧な信仰生活を模範とした彼は、信仰の教義の源泉は聖書のみだと考え、ローマ・カトリックの教義は聖書から離れていると批判した。清貧であるべき教会が富を蓄えて特権的な地位を得たのは、偽のコンスタンティヌスの寄進状に原因があり、王権が教会の資産を没収して、正しい姿に戻すべきだと論じた。また、修道院、聖人、聖遺物、巡礼といった神以外への礼拝を否定し、贖宥状、煉獄、化体説などを退けた。聖職者の叙階は不要で、真の教会会員なら誰でも聖職者たり得ると主張し、ロラード派と呼ばれる巡回説教団を組織して福音伝道を行った。教会の富を分配し直そうとする主張は、貴族の一部の支持も集め、ジョン・オブ・ゴーントらが彼を支えた。
1375年に出版した『世俗の支配権について』の聖職者批判が原因で、1377年にロンドン司教コートニーに異端の容疑で召喚されたが、ジョン・オブ・ゴーントの庇護で断罪を免れた。同年、アヴィニョンの教皇グレゴリウス11世が逮捕と異端審問を要求し、裁判が行われたが、有耶無耶のまま終わった。1378年に教会大分裂が起こると、教皇制批判は一層激しさを増した。1381年にカンタベリー大司教が招集した教会会議で、彼の教説は異端と宣告された。オックスフォード大学での講義を禁じられ、レスターシャーのラタワースの司祭として赴任した。聖餐に関する論考で化体説を否定したことが、支持を失う決定的な契機になったとされる。
ラタワースでも、彼の執筆は続いた。1382年に英文の新約聖書が、翌年には旧約聖書が出された。ウィクリフ聖書はラテン語のウルガタを底本とし、弟子たちとの共同作業であった。英訳の聖書は、ロラード派の伝道に用いられ、カトリック教会が独占していた聖書に、一般信徒が初めて触れる機会となった。一方、農民反乱の首謀者と目されたり、説教中に襲撃されたりするなど、反発も生じた。晩年には脳卒中で半身が麻痺し、話すこともできなくなったが、著述は続いた。1384年12月28日、礼拝中に再び発作を起こし、数日後に没した。破門はされておらず、聖別された土地に葬られた。
死後、ロラード派は民衆運動として広がったが、1399年のヘンリー4世即位とともに出された異端者焚殺令で弾圧された。彼の教説は、ボヘミアのヤン・フスや、100年後の宗教改革にも大きな影響を与えた。1414年のコンスタンツ公会議で異端と宣告され、遺体は掘り起こされて焼かれることが決まり、12年後に教皇マルティヌス5世の命で実行された。
同じ年に亡くなった人物
- ジャンヌ・ド・パンティエーヴル (1384年没)
- マグヌス1世 (メクレンブルク公) (1384年没)
- レジーナ・デッラ・スカラ (1384年没)
- ルイ2世 (フランドル伯) (1384年没)
- ヘールト・フローテ (1384年)
同じ地域に関係する人物
- リチャード3世 (イングランド王) (1485年没)
- エドウィン・ミルズ (アスリート) (1946年没)
- トーマス・シンプソン (1761年没)
- ジョン・オブ・ゴーント (1399年没)
- バリー・エバンス (1997年没)