伝記
ドミトリユス・アルギルダイティスは、リトアニア大公国の公族で、ブリャンスク公である。ブリャンスクのドミトリー、あるいは年長のドミトリーとも呼ばれる。リトアニア大公アルギルダスと、最初の妻でヴィーツェプスク公女のマリヤとの間に生まれた次男である。1320年ごろの生まれとされ、1399年8月12日にヴォルスクラ川の戦いで戦死した。
1356年、アルギルダスはスモレンスク公国から、トルブチェフスクとスタロドゥーブを含むブリャンスクの地を奪い、息子のドミトリユスに治めさせた。この地は、リトアニア大公国の中心部から遠く北東に離れ、モスクワ大公国と領域を接していた。1370年に、モスクワ大公ドミトリー・ドンスコイがこの地の征服を試みたが、失敗した。1372年には、父アルギルダスとドミトリー・ドンスコイの間に結ばれたリュブツク条約の証人となった。
1377年に父が死ぬと、後継者に指名された異母弟のヨガイラを支持せず、同母兄のポラツク公アンドリュスを応援した。アンドリュスは、自分こそ大公位の正統な継承者だと信じ、ポラツク、プスコフ、リヴォニア騎士団、モスクワ大公国による反リトアニア同盟を組織して、ヨガイラに対抗した。ドミトリユスは、同盟のなかでは消極的な役割しか果たさず、リトアニアとの戦争に直接参加することもなく、1379年にモスクワ軍が自分の領地を攻撃したときにも、守ろうとしなかった。ドミトリユスと妻子は、引き揚げるロシア軍に従ってモスクワへ移り、ドミトリー・ドンスコイから、ペレスラヴリ・ザレスキーを与えられた。1380年には、クリコヴォの戦いで、ジョチ・ウルスと戦うロシア側の旗手を務めた。ロシアの年代記は、この戦いでのドミトリユスと兄アンドリュスの戦術の巧みさをたたえている。
1380年以後、ドミトリユスは記録に2度しか現れない。1388年に、兄のアンドリュスがスキルガイラの軍に捕らえられ、ポーランドで投獄されると、ドミトリユスは、ポーランド王となっていたヨガイラと和解し、かつての領地ブリャンスクに戻った。1399年には、ジョチ・ウルスとのヴォルスクラ川の戦いで戦死した。
息子のミカイラス(ミハウ・トルベツキ)は、トルベツコイ家の始祖とされる。ドミトリユスは、アレクサンドラ・ドルツカの父でもあったと推定されている。その娘ソフィア・ホルシャンスカは、ヨガイラの4番目の妻となったので、ドミトリユスは、没後に異母弟の義父となったことになる。ソフィアを通じて、ヨガイラ以後のヤギェウォ朝の君主はすべてドミトリユスの子孫にあたるという。
同じ年に亡くなった人物
- イェレナ・グルバ (1399年)
- ジャン4世 (ブルターニュ公) (1399年没)
- ペトル・パルレーシュ (1399年没)
- トマス・モウブレー (初代ノーフォーク公) (1399年没)
- ニコラウス・エイメリクス (1399年)
同じ地域に関係する人物
- ヴァスィリー・エロシェンコ (1952年没)
- ワジム・ハムツキフ (2021年没)
- Arthur Knautz (1943年没)
- ユーリ・レヴィタン (1983年没)