伝記
ジャン4世は、ブルターニュ公である。1339年に生まれ、1399年11月9日にナントで没した。ブルターニュ継承戦争を戦ったジャン・ド・モンフォールとジャンヌ・ド・フランドルの長男で、征服公、勇敢公とも呼ばれる。
1345年、ブルターニュ継承戦争のさなかに、父がシャルル・ド・ブロワとの戦いのなかで亡くなった。ジャンはまだ6歳で、戦いは母のジャンヌ・ド・フランドルが続け、勝利を重ねた。ジャンは1357年から軍事作戦に加わった。1364年、ブロワ伯が攻撃の準備をしていると知り、オーレを包囲した。エドワード黒太子の送った援軍に助けられて敵軍を破り、オーレの戦いでブロワ伯は戦死した。ジャンは、ブロワ伯の未亡人で従姉にあたる「女公」ジャンヌ・ド・パンティエーヴルと交渉し、翌1365年に第1回ゲランド条約を結んで、単独のブルターニュ公と認められた。同時に、独立を妨げない形でのシャルル5世への臣従も定められた。
イングランドとは同盟関係にあり、継承戦争中の数年を亡命して過ごした。最初の妃は黒太子の妹メアリーで、1366年に再婚した2度目の妃のジョーン・ホランドは、黒太子の継子にあたる。イングランドの傭兵隊長や領主に、ブレストなどの要塞の管理を委ねなければならず、ブルターニュの貴族から非難された。1372年にはイングランド王エドワード3世を主君とする秘密条約を結んだことが露見して、さらに人望を失った。翌1373年にイングランド軍が上陸すると、フランス王に仕えるベルトラン・デュ・ゲクランとオリヴィエ・ド・クリッソンが迎え撃ち、公国の大半を征服した。ジャンは再びイングランドへ亡命した。1378年12月、シャルル5世は懲罰として公国を没収し、フィリップ2世がプランタジネット家にしたように、王領に併合した。しかしその取り上げ方は過酷で、独立を侵されたブルターニュの貴族は反乱を起こし、かつて争ったジャンヌ・ド・パンティエーヴルまでが先頭に立った。
ジャンは1379年8月にイングランド軍とともにディナールに上陸し、公国の支配を取り戻した。イングランド軍は、この再征服で生じた債務の保証として、4つの海上要塞と10の城を押さえた。1380年にゲクランとシャルル5世が死ぬと、フランスの勢いは弱まり、1381年4月、ジャンはシャルル6世と和解して臣従する第2回ゲランド条約を結び、平穏に公国を治めた。1386年には、ゲランドでナバラ王カルロス2世の娘ジャンヌ・ド・ナヴァールと再婚した。クリッソンとの対立は、1386年と1387年の対英上陸作戦にジャンが協力しなかったことや、クリッソンがジャンヌ・ド・パンティエーヴルの息子に娘を嫁がせたことで深まった。1387年7月、ジャンはヴァンヌに議会を招いてクリッソンを捕らえたが、貴族の反対で暗殺を断念し、身代金と領土を得て釈放した。1392年には、再びクリッソンの暗殺を謀り、ピエール・ド・クランを差し向けたが、未遂に終わった。シャルル6世が親征に向かったものの、遠征の途中の8月に王が発狂して中止となり、ジャンは命拾いをした。1395年にジャンとクリッソンは改めて和睦した。
1399年にジャンはナントで亡くなった。長男のジャン5世が後を継ぎ、遺言でクリッソンが子どもたちの後見人に定められた。この後、ジャンヌ・ド・ナヴァールがイングランド王ヘンリー4世と再婚し、子どもたちがイングランドへ連れて行かれそうになる危機もあったが、クリッソンの配慮で切り抜けた。ブルターニュに残った子どもたちは、ブルゴーニュ公フィリップ2世に引き取られて育った。
同じ年に亡くなった人物
- バルクーク (1399年没)
- トマス・モウブレー (初代ノーフォーク公) (1399年没)
- イェレナ・グルバ (1399年)
- ギン・ブア・スパタ (1399年)
- ジョン・オブ・ゴーント (1399年没)
同じ地域に関係する人物
- ルイ・ド・フュネス (1983年没)
- ジョフロワ1世 (ブルターニュ公) (1008年没)
- Frederic Cailliaud (1869年没)
- アンリ・ベクレル (1908年没)
- マルグリット・ド・フォワ (1486年没)