伝記
ジャン・フロワサールは、中世の年代記作家で、百年戦争の前半を記した『年代記』の著者である。1337年ごろ、当時エノー伯領だったヴァランシエンヌに生まれた。生涯についてはほとんど知られておらず、本人の著作に書かれたことから知られるのみである。父は紋章の絵描きだったらしい。はじめは商人として働いたが、まもなくやめ、父が望んだ聖職の道に進んで、聖職者としての教育を受けた。教養ある聖職者でありながら、若者は暮らしの楽しみを好み、24歳ごろにギヨーム・ド・マショーの流れをくむ詩人となった。ロベール・ド・ナミュールに、当時の戦争の年代記を書くよう頼まれ、エノー伯の娘でイングランド王エドワード3世の妃であるフィリッパの宮廷で、詩人兼歴史記録係として仕えた。
1361年にイングランドへ渡り、4年とどまった。1365年には、王妃の推薦状を携えてスコットランドへ向かい、国王のもとに3か月、ダルキースの城でウィリアム・ダグラスのもとに2週間とどまった。9月には国の東部を訪れ、エドワード2世が命を落としたバークリー城に立ち寄った。ウェールズ公のスペイン遠征に同行しそうになったが、ダクスまで来たところで、理由は伝わらないものの、イングランドへ戻るよう命じられた。1368年には、フィリッパの子クラレンス公ライオネルと、ミラノの僭主ガレアッツォ・ヴィスコンティの娘ヴィオランテとの結婚式のために、ミラノへ同行した。一行は447人にのぼり、この式には、ペトラルカとチョーサーも出席していた。その後はサヴォイア、ボローニャ、フェラーラ(キプロス王ピエールと会った)、ローマ(教皇に支援を求めに来たビザンツ皇帝ヨハネス5世と会った)をまわった。帰り道でフィリッパの死を知り、故郷に戻ることにした。1361年から1369年までフィリッパに仕えた期間の覚書は、のちに年代記にまとめられた。
故郷に戻った彼は、1373年より前にエスティヌの主任司祭の職を得た。その後は、ルクセンブルク公ヴェンツェルの秘書、ブラバント女公ジャンヌ、ブロワ伯ギーの礼拝堂付き聖職者(1384年)などと、さまざまな後援者に仕えた。ギーとともにヴァロワ家の宮廷に滞在し(1384年〜1386年)、牧歌や祝婚歌を作った。バイエルンのアルベルトやエノー伯ギヨーム4世にも仕え、そのおかげで年代記の執筆を続けられた。のちにシメイの司教座聖堂参事会員となり、金銭の心配から解放された。1388年にはベアルンのガストン・フェビュスのもとに滞在して、フランス南部の情報を集めた。1395年にイングランドへ戻ると、変わり果てた様子にひどく失望し、騎士道の終わりを見たといわれる。
『年代記』は全4巻で、1322年(1326年とも)から1400年までの、百年戦争の前半の出来事をフランス語で書いたものである。自ら目撃したことや目撃者から直接聞いた話のほか、ジャン・ル・ベルの年代記から写した部分もある。戦闘の記述は写実感にあふれ、当時の風習や様子が細かく読み取れるため、社会史の研究者の興味を引いている。100を超える彩飾写本が作られ、最も有名なものは、1470年にフランドルの貴族ルイ・ド・グルートゥーズが作らせた写本で、112点の挿絵が付けられている。ほかに、詩集と、円卓の騎士たちの武勲を描く長編の騎士物語『メリアドール』も書いている。
フロワサールの死の場所と年は明らかではない。1405年ごろにイングランドで亡くなったと考えられているが、1410年ごろにシメイで亡くなったとする説もある。
同じ年に亡くなった人物
- イマギナ・フォン・イーゼンブルク=リムブルク (1400年(推定))
- 羅貫中 (1400年)
- デュスブルクのペーター (1400年(推定))
- アントニオ・ヴェネツィアーノ (1400年(推定))
- Kamal Khujandi (1400年)
同じ地域に関係する人物
- ギヨーム2世 (フランドル伯) (1251年没)
- ジャン・デュヴュザー (1977年没)
- ボードゥアン5世 (エノー伯) (1195年没)
- レオン・ローゼンフェルト (1974年没)
- Henry III, Count of Louvain (1095年没)