伝記
ギヨーム2世・ド・ダンピエールは、1247年から1251年までフランドル伯をつとめた人物である。1224年に生まれた。父はダンピエール領主ギヨーム2世、母は、のちフランドル女伯兼エノー女伯となるマルグリット2世であった。母は父と結婚する前に、ブシャール・ダヴェーヌと結婚していたが、教会はその結婚を無効とした。そのため母にはダヴェーヌとの間の子もおり、異父兄にエノー伯となるジャン1世がいる。弟にはギーとジャンがいる。母の2度の結婚については、親族の血のつながりが近いことから、その正当性をめぐる争いが何十年も続いた。1231年に父が没すると、ギヨームはダンピエール領主となった。
1244年に母がフランドルとエノーを継ぐと、ただちにフランドル継承戦争が起こった。ギヨームらダンピエール家の一派と、母の最初の夫との間の子らが争ったのである。教会はダヴェーヌ家の子らを庶子と見なしたが、皇帝フリードリヒ2世にとっては嫡子であった。母はギヨームを支持して後継者に指名した。1246年にフランス王ルイ9世が調停に乗り出し、フランドルはダンピエール家のギヨームに、エノーはダヴェーヌ家のジャン1世に与えるという裁定を下した。このころ母は、ギヨームを共同統治に加えていたフランドルの後見と、エノー伯領を、ルイ9世の弟アンジュー伯シャルルに差し出したともいう。これに不満な長男ジャンは、1247年にドイツ王に選ばれた義弟のホラント伯ウィレム2世を説いて、エノーとフランドルの帝国領の一部を包囲させた。母とシャルルはドイツ王コンラート4世と結んで対抗し、内戦ではダヴェーヌ家が優勢だったとされる。翌1247年、母はギヨームに正式にフランドル伯位を譲った。同年11月、ブラバント公アンリ2世とマリア・フォン・ホーエンシュタウフェンの娘ベアトリクスと結婚したが、二人の間に子は生まれなかった。
1248年には、ウィレム2世に臣従の礼を取ったのちルイ9世に従って聖地へ向かい、第7回十字軍に加わった。1249年にはダミエッタの攻略に参加し、1250年に捕虜となった。一方、ナミュールをめぐるダンピエール家とダヴェーヌ家の争いは続いたが、1250年5月19日に和睦が成立した。しかし翌1251年6月6日、ギヨームはトラズニーで開かれた馬上槍試合の最中に、騎士の一団に殺された。ダヴェーヌ家が黒幕だと疑われ、ダンピエール家とダヴェーヌ家の戦いが再燃した。
ギヨームの弟ギーがフランドルとダンピエール家の権利を継ぎ、戦争は再開された。フランドル伯位は母が復位し、のちにギーに譲られた。ダンピエール領主の位は弟のジャンが継いだ。
同じ年に亡くなった人物
- サキャ・パンディタ (1251年没)
- マチュー2世 (ロレーヌ公) (1251年)
- William of Modena (1251年)
- ビオランテ・デ・ウングリア (1251年没)
- Berthold (1251年没)
同じ地域に関係する人物
- ボードゥアン5世 (エノー伯) (1195年没)
- テレーズ・カバリュス (1835年没)
- ピノ・チェラミ (2014年没)
- マリア・エリーザベト・フォン・エスターライヒ (1680-1741) (1741年没)
- ロベルト・カンピン (1444年没)