伝記
ビームラーオ・ラームジー・アンベードカルは、1891年4月14日、インドのマウ(現マディヤ・プラデーシュ州)で生まれた政治家、思想家である。カースト制度の最下層とされる不可触民の家に生まれ、父ラームジー・サクパールはイギリス領インド軍の軍人で、14番目で最後の子だった。学校では不可触民の子として教室の中に座ることを許されず、水を飲むときも、上位カーストの者が高いところから注いでくれなければならなかった。1894年に父が退役して一家はサータラーへ移り、その後まもなく母が亡くなった。1897年にムンバイへ移ると、エルフィンストーン高校で唯一の不可触民の生徒となった。1906年、15歳ごろに9歳の少女ラマバイと結婚した。親が決めた縁組だったという。1907年に大学入学資格試験に合格し、これは彼の所属する共同体では不可触民として初めてのことだった。続いてボンベイ大学のエルフィンストーン・カレッジに入り、1912年に政治学と経済学の学士号を得た。ヴァドーダラー藩王国から、留学後の10年間、藩王国のために働く条件で奨学金を受けた。藩王サヤージー・ラーオ・ガーイクワード3世は、不可触民制に関心を持つ開明君主として知られた。
1913年から1916年にかけてニューヨークのコロンビア大学で経済学や社会学、歴史学、哲学などを学び、1915年に修士号、のちに博士号を取った。1916年にロンドンへ移ってロンドン・スクール・オブ・エコノミクスとグレイ法曹院に入学したが、1年後に奨学金の期間が終わった。ヴァドーダラー藩王国に仕えたものの、差別にたまりかねて辞職しボンベイに戻った。その後コールハープル藩王シャーフーの知遇を得て、1920年にシドナム・カレッジで教え、マラーティー語の隔週刊紙『ムーク・ナーヤク』(声なきものたちの指導者)を創刊した。ロンドンに戻って学位論文「ルピーの問題」で科学博士となり、英国の上級法廷弁護士の資格も取得した。ドイツのボン大学でも3か月間、経済学を学んでいる。帰国後は1923年7月に弁護士として開業し、大学で教え、新聞を発行して、ボンベイ州立法参事会の議員にも任命された。また被抑圧者救済会の理事長として、不可触民への教育の普及や雇用の促進に努めた。
1927年から1932年にかけては、ヒンドゥー寺院への立ち入りや、公共の貯水池・井戸の利用を求める非暴力運動を進めた。ナーシクの寺院と、マハードのチャウダール貯水池をめぐる運動には、それぞれ数万人の不可触民が参加し、上位カーストは暴力的に反応した。貯水池の運動は数年にわたる訴訟を経て勝利に終わった。彼は『マヌ法典』が不可触民への過酷な扱いの根拠になっていると考え、この運動の場で焼却した。ガンディーに対しては、カースト解消に不徹底だと批判的な立場をとった。
1947年8月15日のインド独立後は法務大臣となり、憲法起草委員の一人として、信教の自由や封建遺制の禁止、被差別カーストへの優遇措置を盛り込む草案を作った。憲法は1949年11月26日に採択された。1952年に国政の議席を失ったが、大統領任命の上院議員となった。1950年にセイロンを訪れたのをきっかけに仏教への関心を深め、1956年12月に死去する2か月前の10月14日、三帰依・五戒を授けられて仏教徒となった。これに続いて約50万人もの不可触民が仏教に改宗し、新仏教運動のきっかけとなった。1956年12月6日に没し、「バーバーサーヒブ」の敬称で呼ばれている。
同じ年に亡くなった人物
- デヴィッド・シーモア (1956年没)
- フリッツ・ジュベール・デュケイン (1956年没)
- ベラ・ルゴシ (1956年没)
- スタン・オケルス (1956年没)
- ユホ・クスティ・パーシキヴィ (1956年没)
同じ地域に関係する人物
- ザーキル・フセイン (1969年没)
- カマラ・ソホニー (1998年没)
- ラジェンドラ・パチャウリ (2020年没)
- Sucheta Kripalani (1974年没)
- クシュワント・シン (2014年没)