伝記
エミール・ノルデは、1867年8月7日に北シュレースヴィヒ地方のノルデ村の近くで、ハンス・エミール・ハンゼンとして生まれたドイツの画家である。ノルデは生まれた村の名で、のちに自ら名乗るようになった。両親は敬虔なプロテスタントで、デンマーク系とフリジア系の農民だった。農場で育ったが、農作業に向かないことを自覚し、3人の兄弟とも似ていないと感じていたという。1884年から1891年にかけてフレンスブルクで木彫と挿絵を学び、家具工場でも働いた。1889年にはカールスルーエの工芸学校に入り、1892年から1898年までは、スイスのザンクト・ガレンにある工芸博物館付属の学校で素描を教えた。子供のころから絵を描くことが好きだったが、画家への道を選んだのはすでに31歳のときだった。
1898年にミュンヘン美術院に入学を断られたあと、3年ほど私的な絵画の授業を受け、パリに出て、アカデミー・ジュリアンにも学んだ。1902年にデンマークの女優と結婚し、ベルリンに移った。収集家グスタフ・シーフラーや画家カール・シュミット=ロットルフらと出会い、のちに彼らが作品を支えることになった。そのころから出身地の地名を名乗るようになった。1906年1月にドレスデンの画廊で個展を開くと、エルンスト・ルートヴィヒ・キルヒナーら「ブリュッケ」の画家たちから、グループに加わるよう請われた。しかし孤独を好む性格で、1年ほど所属しただけで脱退し、独自の道を歩んだ。1908年から1910年までベルリン分離派に属したが、指導部との対立で除名された。ベルリンでは民族学博物館の収集に強く影響を受け、何度も通って展示品を素描した。1912年には「青騎士」の展覧会にも出品し、すでに名声を得て、作品で生計を立てられるようになっていた。
1909年には北ドイツのルッテビュルという村に定住し、以後『キリストの生涯』の連作など宗教的な画題に取り組んだ。作品は原色を多用した強烈な色彩と単純化された形態が特色で、ゴッホやオセアニア美術の影響が感じられる。木版画や水彩画の名手でもあり、特に水彩は北ドイツの風景や草花を題材にして、水彩という画材の持ち味を存分に生かした。
第一次世界大戦の敗戦により、彼の故郷はデンマークに割譲された。ノルデは弱小政党だったナチスの政策に共感し、1920年代の初めからナチ党員となっていた。ゲッベルスは彼の水彩の花の絵を好んだという。ユダヤ人の芸術家に否定的な意見を述べ、表現主義をゲルマン固有の様式と考えていた。だが、非常に強烈な宗教画はしばしば「宗教への冒涜」「退廃芸術」と批判され、1937年にはドイツ中の美術館から1,052点の作品が押収されて、一部が「退廃芸術展」に出品されさらし者にされた。美術院を除名され、1941年以降は私的にも描くことを禁じられたが、ひそかに「描かれざる絵」と呼ぶ極小の水彩画を数多く描いて戦時下を過ごした。
戦後はこれらの絵を大きく描き直す仕事を再開した。ふたたび栄誉を受け、プール・ル・メリット勲章も贈られた。最初の妻は1946年11月に亡くなり、2年後に作曲家でピアニストのエドゥアルト・エルトマンの娘ヨランテと再婚した。1956年4月に没した。近年の研究は、彼がナチズムに傾倒していたことと作品との関係を問い直しており、2019年にはベルリンの国立美術館で、ナチ政権下の画家を検証する展覧会が開かれている。
同じ年に亡くなった人物
- ピエトロ・バドリオ (1956年没)
- ハインリッヒ・バルクハウゼン (1956年没)
- スタン・オケルス (1956年没)
- ヤン・ウカシェヴィチ (1956年没)
- ヤクプ・コーラス (1956年没)
同じ地域に関係する人物
- ザラ・キルシュ (2013年没)
- ヘルムート・ハッセ (1979年没)
- アニタ・レー (1933年没)
- アーデルハイト・ツー・シャウムブルク=リッペ (1821-1899) (1899年没)
- Bahne Rabe (2001年没)