伝記
ゴットフリート・ベンは、1886年5月2日にブランデンブルク州のマンスフェルト(現在のプットリッツ)で生まれたドイツの詩人で、表現主義文学の代表的な存在である。牧師の息子で、母はフランス系スイス人だった。はじめは父の意向に従い、マールブルク大学とフリードリヒ・ヴィルヘルム大学(のちのベルリン大学)で神学と文献学を学んだが、のちに志望を変え、ベルリンの軍医養成の大学で医学と生物学を学んだ。
1912年に卒業して軍医となり、同じ年に最初の詩集『モルグ』を発表した。医学や生物学の知識を生かしたグロテスクな表現は、限られた部数の出版だったにもかかわらず激しい論争を呼び、ベンには挑発的で人を驚かせる詩人という評判がつきまとうようになった。一方で、ベルリンの新しい前衛に属する作家や画家は、この詩集に熱狂した。続く1913年の詩集『息子たち』、1917年の詩集『肉』も表現主義の気配のなかにある。第一次世界大戦中の1915年から1917年までは軍医としてブリュッセルに滞在し、そこで本格的に詩作を始めた。この間に書かれた小説集『医師レンネ』(1916年)は、主人公レンネが作者の分身で、ブリュッセル連作とも呼ばれる。この時期の作品は、戦争や、同時代の他の表現主義者が描いた道徳的、社会的な対立を映したというより、ニーチェの流れを汲み、詩作を人間の最後の形而上学的な営みとみなす、思索する人間としてのベンの姿を示すものだとされる。1924年には詩集『瓦礫』を出した。
1920年頃からは詩と並んで、詩作や、作家と権力との関係を論じる評論にも取り組んだ。もともと政治には関わらなかったが、ニーチェやショーペンハウアー、シュペングラーの『西洋の没落』から受けた悲観主義もあって、1933年から1934年にかけて一時ナチスに傾倒し、これを賛美する論文を書いた。しかし新しい国家の守り手たちの狭い見方のため、しだいに文学活動を制限され、体制の代弁者から攻撃を受けるようになった。誤りを悟って反ナチスの態度をとり、1937年には帝国文筆院から除名され、1938年には文学活動を禁じられた。のちにドイツ国防軍の軍医として身を投じ、この行動を「貴族的亡命」と称したが、反ファシズム陣営からは批判された。この時期は公の場を離れ、完全な孤立のなかで、自身の最良の詩のいくつかを書いたとされる。
第一次世界大戦で3人の兄弟を、第二次世界大戦では他の親族と妻を失い、戦後はベルリンの連合国政府による執筆禁止も重くのしかかった。ベルリンで皮膚・性病科の開業医を営みながら、しばらくは沈黙していた。しかし1948年にスイスの出版社から詩集『静学詩篇』を刊行すると、その声は同時代の誰よりも高く響いて、一躍世界的な名声を得た。リルケやブレヒト以来、真に新しく独創的な声とみなされ、ドイツ語で書く存命の詩人で最も重要な人物、戦後の抒情詩の刷新者と評された。現実から超越した形式と美学を追求し、若い世代にも影響を与えた。女優のティリー・ネーヴェス、劇作家ヴェーデキントの未亡人と、長く恋愛関係にあった。1956年、70歳の誕生日の2か月後にあたる7月7日、最も愛し、ほとんどの生涯を過ごしたベルリンで死去した。
同じ年に亡くなった人物
- アウグスト・クビツェク (1956年没)
- アート・テイタム (1956年没)
- ウォルター・シドニー・アダムズ (1956年没)
- コンスタンティン・フォン・ノイラート (1956年没)
- ヤン・ウカシェヴィチ (1956年没)
同じ地域に関係する人物
- ヴィルヘルミーネ・フォン・ヘッセン=カッセル (1808年没)
- ペーター・ヘーグル (1945年没)
- ジュゼッペ・シノーポリ (2001年没)
- カミラ・スピラ (1997年没)
- マニュエル・ゲッチング (2022年没)