HISTORICAL PERSON · 1956年没

ヴィルヘルム・フォン・レープ

ドイツの陸軍軍人。第二次世界大戦で軍集団司令官を務めたが、独ソ戦の最中にヒトラーと対立して解任された。最終階級は元帥。

生涯
1956年没
死亡地
ドイツ連邦共和国(バイエルン州 / フュッセン)
出生地
ドイツ連邦共和国(ランツベルク・アム・レヒ)
出典
世界地図
ドイツ連邦共和国(バイエルン州)

伝記

ヴィルヘルム・ヨーゼフ・フランツ・リッター・フォン・レープは、1876年9月5日にバイエルン王国のランツベルクに生まれたドイツの陸軍軍人である。カトリックの家に育ち、5歳年下の弟エミールも軍人となって砲兵大将にまで昇進した。1895年にバイエルン軍に入り、士官候補生として野戦砲兵連隊に配属され、1897年に少尉に任官した。義和団の乱に際しては、ヴァルダーゼー元帥率いるドイツ極東派遣軍の一員として中国に派遣されている。1903年から1907年までミュンヘンの学校で学んで優秀な成績で卒業し、その後バイエルン参謀本部やベルリンのプロイセン参謀本部で勤務した。大尉に昇進して中隊長を務め、1914年に第一次世界大戦が始まったときには、バイエルン第1軍団の参謀将校であった。

大戦では第11バイエルン歩兵師団の参謀として各地に従軍し、マッケンゼンの指揮下でゴルリッツ=タルヌフ攻勢、プルジェミスル要塞の攻略戦、バルカン半島でのドナウ渡河作戦などで抜群の功を立てた。ゴルリッツ攻勢での功績によりマックス・ヨーゼフ軍事勲章を受章し、これによって「騎士」を名乗ることが許された。1917年3月からは終戦まで西部戦線で参謀を務め、次席参謀、ついで兵站部長となった。戦後もヴァイマル共和国の軍に残り、国防省の兵務局参事や軍管区の参謀などを歴任して、1929年に少将に昇進した。1933年にヒトラー政権が樹立されたあともナチスと距離を置いたが、出世は続き、翌年1月には砲兵大将に昇進した。このころ『防御戦』を著し、防御戦術研究の第一人者とみなされるようになった。

1938年のブロンベルク罷免事件ののち、新しい陸軍総司令官ブラウヒッチュは、ヒトラーの指示でレープを上級大将に昇進させると同時に予備役に編入した。しかしその年の7月にはズデーテン危機を受けて現役に復帰し、第12軍司令官としてズデーテン進駐に従事した。1939年夏に再び現役となり、フランスとの国境に配備されたC軍集団の司令官に任命されたが、このときルントシュテットに次ぐ陸軍の最古参であった。1940年5月に始まった西方電撃戦では、C軍集団がマジノ線を突破した。フランス降伏後の7月19日には、多くの将官とともに元帥に列せられている。翌1941年初めに北方軍集団の司令官となり、6月22日のバルバロッサ作戦開始後は、バルト海沿岸の港湾都市を押さえつつレニングラードへ進撃した。だが冬になると指揮下の装甲集団を中央軍集団に譲らされ、レニングラードを包囲するのみで、攻略は不可能になった。敬虔なキリスト教徒だったレープは、ナチス・ドイツの蛮行やヒトラーの専横に嫌気がさしており、司令官の解任を申し出ていた。1942年1月16日に解任されて総統予備となり、以後軍務に就くことはなかった。

ナチスに批判的でありながら、1941年9月の65歳の誕生日にはヒトラーから25万ライヒスマルクを下賜され、のちにも屋敷の購入にあたって63万8千ライヒスマルクを下賜されている。1945年5月にアメリカ軍の捕虜となり、1948年のニュルンベルク継続裁判の国防軍最高司令部裁判で懲役3年の判決を受けたが、すでに3年が過ぎていたため釈放された。判決では、バルバロッサ関連の命令を伝達したことなどが問われたという。指揮下の部隊が民間人に対する戦争犯罪を犯し、親衛隊の特別行動部隊と緊密に協力していたことも指摘されている。登山を趣味とし、山岳案内人の講習も受けた。1956年4月29日にフュッセンで死去した。

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