伝記
アルトゥーロ・トスカニーニは、1867年3月25日にイタリア北部のパルマで生まれ、1957年1月16日にニューヨークで没した指揮者である。スカラ座やメトロポリタン歌劇場の指揮者を歴任し、二十世紀前半を代表する指揮者とされる。速く正確なテンポと統一されたアンサンブルを重んじる演奏は、戦後の演奏法の規範となった。
パルマの労働者階級の住む地区で、仕立屋クラウディオと裁縫師パオラの第一子、唯一の男児として生まれた。四歳のとき初めて歌劇場に連れて行かれ、ヴェルディの『仮面舞踏会』を聴いた。1876年にパルマ王立音楽学校に入り、9年間の厳しい教育を受けて、1885年にチェロと作曲で最高の栄誉を得て首席で卒業した。その直後、巡業歌劇団の首席チェロ奏者・副合唱指揮者となり、1886年6月、リオデジャネイロでの公演で『アイーダ』の指揮者として突然デビューすることになった。帰国後の11月にはトリノでプロの指揮者としてデビューした。1887年、ミラノ・スカラ座で『オテロ』初演の際に第2チェロを弾き、以後約10年は地方の歌劇場を回って指揮をした。1892年には『道化師』を初演している。1895年にトリノの王立劇場の首席指揮者となり、1896年には『ラ・ボエーム』を初演した。1897年にカルラ・デ・マルティーニと結婚し、四人の子をもうけた。1898年、31歳でスカラ座の芸術監督に任命されたが、1903年に聴衆や新しい運営委員会との不和から辞任した。1906年にスカラ座に復帰し、1908年に再び不和が生じて辞任すると、ニューヨークのメトロポリタン歌劇場に移り、グスタフ・マーラーとともに首席指揮者となった。1910年にはプッチーニの『西部の娘』を初演している。
1915年に仕事上の不和などでメトロポリタンを辞し、第一次世界大戦のために帰国した。1917年には楽団を率いて前線を慰問し、勇気を称えられて勲章を授けられた。1919年のミラノ議会選挙では、ムッソリーニが率いる戦闘者ファッシの候補者名簿に名を連ねたが、ムッソリーニの権力掌握に幻滅して、独裁者に抵抗を始めた。1926年にスカラ座でプッチーニの『トゥーランドット』を初演し、ニューヨーク・フィルハーモニックも初めて指揮した。ムッソリーニが臨席する初演で、党歌「青春の歌」の演奏を拒み、ムッソリーニは立ち会わなかったと伝えられる。1929年にスカラ座を辞任した。ムッソリーニがスカラ座を政治的に利用しようとしているのを察したためで、1931年には党歌の演奏を拒んだとして、ボローニャで暴漢に襲われた。1930年にはバイロイト音楽祭で、ドイツ系でない指揮者として初めてワーグナーを振った。1933年に、ヒトラーによるドイツの支配が強まったことを理由に、バイロイトでの指揮を拒んだ。1936年には、パレスチナ交響楽団(現在のイスラエル・フィルハーモニー)の結成演奏会のためパレスチナへ渡った。1937年からはNBC交響楽団の首席指揮者となり、ラジオ演奏会を始めた。
極度の近視のため、リハーサルも本番も暗譜で指揮し、リハーサルの厳しさでも知られた。1946年にはミラノに戻り、爆撃で破壊されたスカラ座の再開演奏会を指揮した。1954年4月4日、カーネギー・ホールで最後の演奏会を行った。ワーグナーの曲目で記憶に障害が生じ、指揮を一時止めたと伝えられ、直後に引退が発表された。68年にわたる指揮者人生であった。1957年の元日に脳血栓の発作を起こし、1月16日、ニューヨークのリバーデイルの自宅で亡くなった。ミラノの家族墓地に葬られた。
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