HISTORICAL PERSON · 1957年没

ジョン・フォン・ノイマン

ブダペスト生まれのハンガリー出身の数学者。論理学から経済学まで幅広い分野で先駆的な論文を発表し、原子爆弾やコンピュータの開発にも関わった。

生涯
1957年没
死亡地
アメリカ合衆国(ワシントンD.C.)
出生地
ハンガリー(ブダペスト)
出典
世界地図
アメリカ合衆国(ワシントンD.C.)

伝記

ジョン・フォン・ノイマンは、1903年12月28日にブダペストで3人兄弟の長男として生まれ、のちアメリカ合衆国で活躍した数学者である。生まれたときの名はヤーノシュといい、愛称はヤーンチだった。裕福な家庭で、父は銀行の弁護士、母はカン・マルギットといい、ともにハンガリーに移住したユダヤ系ドイツ人だった。幼い頃から英才教育を受け、6歳で7桁から8桁の掛け算を筆算でこなし、父と古代ギリシア語で冗談を言い合ったという。家にあった44巻本の『世界史』を読み通し、好んだ本は一字一句違えず暗唱できた。一方、父が招いたフェンシングの先生には匙を投げられ、習わされたピアノやチェロもまったく上達しなかった。レッスン中に譜面の裏に歴史や数学の本を隠して読んでいたことが、後に分かったという。1913年に父が貴族に叙せられ、名は「フォン・ノイマン・ヤーノシュ」となり、のちドイツ語のヨハン・フォン・ノイマンに変わった。

1914年にブダペストのルーテル派ギムナジウムに入学し、のちのノーベル物理学賞受賞者ユージン・ウィグナーと学友になった。教師ラースロー・ラーツがその数学の才能を見抜き、父に高度な数学を学ばせるよう申し出て、ブダペスト大学の数学者たちに引き合わせた。個人教授に当たった数学者のうち、ミヒャエル・フェケテとリポート・フェイェールとは特に親しく付き合い、1920年、17歳のときにフェケテと最初の論文を書いた。ギムナジウムでは首席で、体育・習字・音楽だけは落第すれすれの「可」だったが、卒業試験も首席で通り、エトヴェシュ賞にも合格した。数学より金になる学問を望んだ父は、友人のセオドア・フォン・カルマンに相談し、ベルリン大学とチューリッヒ工科大学で化学工学を学ぶことになったが、授業を欠席しても試験では優秀な成績を収め、23歳で数学・物理・化学の博士号を授与された。1926年にはその論文をダフィット・ヒルベルトに気に入られ、ゲッティンゲン大学で師事し、1927年から1930年には最年少でベルリン大学の私講師を務めた。

1930年にプリンストンに招かれ、1933年からはプリンストン高等研究所で数学の教授を務めた。ナチス政権を避けて一家はアメリカに移り、ジョンというアメリカ風の名に改めた。第二次世界大戦中は爆発時の衝撃波の理論を研究して爆発物の第一人者となり、海軍の顧問を務め、マンハッタン計画にも加わった。1944年8月、数学者ハーマン・ゴールドシュタインから汎用電子計算機エニアックのことを聞くと、わずか2週間でプログラム内蔵型コンピュータの概念を作り上げ、翌年3月には現在のコンピュータの基本構成となる案をまとめたとされる。数学基礎論では、ゲーデルとは独立に第二不完全性定理を発見した。ゲーム理論の成立に貢献し、ミニマックス定理を証明した。『量子力学の数学的基礎』を著して量子力学を形式的に完成させ、モンテカルロ法の考案にも加わった。1946年には気象プロジェクトを立ち上げ、電子計算機による数値予報の道を開いた。

1950年代には政府や大企業の顧問を引き受け、1953年に発足した委員会の答申で6種の戦略ミサイルが開発された。しかし核実験の観測などで放射線を浴びたことが原因とされ、1955年に骨腫瘍あるいは膵臓がんと診断された。それでも活動を続けたが、1956年1月に入院し、死が近づくと、かつて結婚の際に改宗したカトリックの司祭との面会を望んで周囲を驚かせた。1957年2月8日、53歳で亡くなり、プリンストン墓地に埋葬された。

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