HISTORICAL PERSON · 1957年没

アルフレッド・キンゼイ

アメリカの性科学者・動物学者。昆虫研究の統計手法を人間の性行動に適用し、その実態を明らかにしようと試みた。

生涯
1957年没
死亡地
アメリカ合衆国(インディアナ州 / ブルーミントン)
出生地
アメリカ合衆国(ホーボーケン)
出典
世界地図
アメリカ合衆国(インディアナ州)

伝記

アルフレッド・チャールズ・キンゼイは、1894年6月23日、ニュージャージー州ホーボーケンに、三人きょうだいの長子として生まれたアメリカの性科学者・動物学者である。父は工科大学の教員を務める技術者で、宗教的に厳格なメソジストとして知られ、一家は教会の外の人々とはほとんど交わらなかった。少年のキンゼイは禁欲的な暮らしを強いられ、くる病やリウマチ熱、腸チフスなど多くの病気の治療を受けた。くる病のために背骨が曲がり、1917年に徴兵を免れて、第一次世界大戦で戦わずにすんだ。のちに一家はサウス・オレンジに移り、高校では物静かな勤勉な生徒で、ピアノにも打ち込んで、プロのピアニストを志したこともあったという。

エンジニアになることを求める父に反発し、幼い頃から関心のあった昆虫の研究を続けるため、工科大学を中退した。1914年の秋にボウドイン大学に入り、昆虫学をマントン・コープランドに学び、1916年にはファイ・ベータ・カッパの会員に選ばれ、生物学と心理学で優秀な成績を収めて卒業した。父は卒業式に来なかったが、これも息子の進路への不賛成の表れかもしれないとされる。続いてハーヴァード大学のバッシー研究所で、応用生物学の昆虫学者ウィリアム・モートン・ホイーラーに学び、分類学の博士号を取った。インディアナ大学ではタマバチの研究に携わり、この分野の第一人者として注目された。1921年には、のちに共同研究者にもなるクララ・マクミランと結婚し、四人の子をもうけた。長男ドナルドは1922年に生まれたが、1927年に若年性の糖尿病の合併症で五歳を目前に亡くなった。このほか、教科書『生物学入門』や、1943年にメリット・ファーナルドと共著した『北米東部の食べられる野生植物』も著している。

人間の性への関心は、学生からの質問がきっかけだったという。昆虫の研究で用いた統計の手法を人間に適用すれば、性の実態を明らかにできると考えた。1947年にはインディアナ大学に性研究所を設立し、のちにキンゼイ研究所と呼ばれるようになった。1948年と1953年に、白人の男女約一万八千人の性に関する調査を、いわゆるキンゼイ報告として発表した。数年にわたる膨大なアンケートと面接をもとにしたもので、成人男性の三割、成人女性の二割が同性愛的傾向を持つこと、女性も自慰をすることなどを報じて一大センセーションを巻き起こした。信仰に基づく「かくあるべき」という通念を排し、実際に「どうあるか」を示したことで、その後の医学の発展や女性の権利向上に影響したとされる。当初は強い反発を受けたが、報告は今も引用される重要な調査文献の一つである。

キンゼイ自身は人間を異性愛者・同性愛者などに分類する考え方に反対し、「ただ人類だけが分類を発明し、事実を分類棚に押し込めようとする」と第一巻で述べた。しかし、調査対象の中には刑務所にいた経験のある者が多く含まれることなど、標本の偏りへの批判が根強く、面接による収集そのものを疑う声も出版当時からあった。結果を得るために児童への性犯罪者の協力を得ていたとの非難もあり、研究所は資料の出所を明かしていない。1956年8月25日、インディアナ州ブルーミントンの病院で、心臓病と肺炎のため亡くなった。2004年には伝記映画『愛についてのキンゼイ・レポート』が作られ、リーアム・ニーソンが演じた。

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