伝記
ガブリエラ・ミストラルは、本名をルシラ・ゴドイ・アルカヤガといい、1889年4月7日、チリ北部のビクーニャに生まれた詩人・教育者・外交官である。父フアン・ヘロニモは教師で詩人でもあったが、彼女が三歳のころに家を出た。それでも彼女は父を慕い、守り続け、父の書いた詩を見つけて読んだことが詩への情熱を目覚めさせたと書いている。送金が途絶えたため、十四歳年上の異父姉エメリーナが働く、アンデス山中の寒村モンテグランデで九歳まで過ごした。この村を彼女は故郷と考え、愛する村と呼び、そこに葬られることを望んだ。転校先で放校処分を受けたのち、独学で詩を書き始めた。
1904年、十五歳で地方紙などに初期の詩を発表し、同じ年に小学校の代用教員となって、以後各地の学校で教えた。1906年ごろに鉄道員のロメオ・ウレタと交際したが、彼が1909年に自殺し、その悲しみは死に傾く作風となって生涯にわたった。教師の養成学校には宗教上の偏見から入れなかったため、1910年、サンティアゴの師範学校で知識を認めさせて教員資格を得た。しかし、学校で学んでいない者として同僚から疑問視され、これは各地の学校で繰り返された。アントファガスタやプンタ・アレーナス、テムコなどで教師や校長を務め、三十三歳まで教壇に立ち、テムコでは若き詩人パブロ・ネルーダを見出している。1914年の「死のソネット」がサンティアゴの詩の競作で最優秀賞を得てラテンアメリカ中の注目を集め、以降、敬愛するダヌンツィオとフレデリック・ミストラルの名にちなんだガブリエラ・ミストラルを名乗った。
1922年、メキシコ政府の文部大臣ホセ・バスコンセロスの招きで教育改革委員としてメキシコへ渡り、学校制度や図書館の整備、移動図書館や夜間学校の導入に尽力し、教材『女性読本』を作った。同じ年、アメリカでは第一詩集『荒廃』が出版された。メキシコを去る際には大統領の計らいでヨーロッパを旅し、マドリードで第二詩集『いつくしみ』を出した。1926年には国際連盟の知的協力委員会のチリ代表としてフランスに赴任し、教壇を退いた。ところが独裁体制が築かれつつあったチリでは、平和を訴える彼女の記事の掲載が禁じられ、代表として戻るのを拒んだため給与を絶たれ、各国の出版社への寄稿で生計を立てた。
1933年から領事として外交官の道に入り、ナポリ、マドリード、リスボン、ニースなどで勤務して文化交流に努めた。1938年にブエノスアイレスで出た第三詩集『タラ』は、売り上げがスペイン内戦の孤児に寄付され、ラテンアメリカの習俗を盛り込んだ作品として評価が高い。一緒に暮らしていた十八歳の甥ファン・ミゲルは1943年に自殺した。1945年、ラテンアメリカの作家として初めてノーベル文学賞を受賞し、「ラテンアメリカの母」と呼ばれた。賞金でカリフォルニア州サンタバーバラに家を買い、ロサンゼルスの領事を務めた。1950年には核兵器廃絶を訴えるストックホルム・アピールに平和のメッセージを寄せ、1951年にはチリ国民文学賞を受けて、賞金の一部で故郷ビクーニャに図書館が建てられた。1954年、十六年ぶりにチリへ帰国して歓迎を受け、同年第四詩集『ラガール』が出た。これは甥を失った衝撃で床についた彼女が、祈りを込めて書いたものである。
ニューヨーク州ロングアイランドに住み、1956年にはハンガリー事件への抗議声明に署名した。1957年1月10日、膵臓癌により同地の病院で亡くなり、六十七歳だった。チリ政府は三日間の喪を宣言した。チリの「5000ペソ紙幣」の肖像になっている。
同じ年に亡くなった人物
- ハリル・クート (1957年没)
- ゲルティー・コリ (1957年没)
- アブデュルハリク・レンダ (1957年没)
- モーリス・オーダン (1957年没)
- ヴィルヘルム・ライヒ (1957年没)
同じ地域に関係する人物
- バーナム・ブラウン (1963年没)
- アブル・アアラー・マウドゥーディー (1979年没)
- ジョーン・クロフォード (1977年没)
- ニコラス・バトラー (1947年没)
- リリアン・ギッシュ (1993年没)