伝記
ティムールは1336年4月、サマルカンド南部のキシュ近郊で、バルラス部の貴族タラガイの子として生まれた。名は「鉄」を意味し、この名を持つテュルク系・モンゴル系の人物は少なくなかった。後世の史書は一族をチンギス・カンに仕えた千人隊長の子孫とするが、同時代の史料に裏づけはなく、史実かどうかは疑わしいとされる。父の家は裕福ではなく、従者はわずか数人ほどだった。若い頃は乗馬と弓術を身につけ、ペルシア語、テュルク語、モンゴル語を話したという。早くに実母を亡くし、狩猟や家畜の番をして育った。やがて周囲に人が集まり、数人の部下を連れて略奪を行い、戦利品を気前よく分けたために一団は300人にまで膨らんだと伝えられる。
20歳にならないうちに西チャガタイ・ハン国の有力者カザガンに見いだされて側近となり、その孫フサインと親しくなった。1358年頃にカザガンが暗殺されると、マー・ワラー・アンナフルでは貴族たちが各地に割拠した。1360年にモグーリスタン・ハン国のトゥグルク・ティムールが侵入すると、ティムールはその軍に出頭して謁見し、バルラス部の指導者とキシュの統治を認められたが、叔父ハージーが戻ると地位を返して仕えた。のちに妻と少数の従者とともに逃亡し、フサインと合流してモグーリスタン軍と戦った。1362年には両者そろって捕らえられ、メルブで62日間を過ごしている。1363年にはスィースターンの領主との戦いで右手と右足に矢傷を負った。1364年には石橋の戦いなどでモグーリスタン軍を退け、二人はハンを立てて共同統治の体制を築いた。1365年の泥沼の戦いでは兵数で勝りながら敗れて二人はバルフ方面へ逃れたが、進軍したイリヤース・ホージャの軍はサマルカンド市民の奇襲と軍馬の疫病により退却した。翌年サマルカンドへ戻った二人は、市民の指導者サルバダールたちを歓待したのち、助命された一人を除いて皆殺しにした。
しかしフサインとの関係は、敗戦の責任や重税をめぐって悪化し、ティムールが寵愛した妻でフサインの妹であるウルジェイの死がその対立を深めた。ティムールは重税に苦しむ支持者のために妻の装飾品まで売って債務を肩代わりし、信頼を高めた。1369年、アムダリヤ川を渡ってバルフへ進むと多くのアミールが合流した。降伏したフサインは、助命の約束にもかかわらず、ティムールの同盟者カイフスロの手で処刑された。翌1370年4月、ティムールは式典を開き、ハンに即位する意思はないこととイスラム教を国教とする意思を表明した。チンギス家の娘を妻に迎えたことで、ハンの婿を意味するキュレゲンの称号を名乗り、生涯ハンの称号は用いなかった。同年サマルカンドを首都と定め、城壁、内城、宮殿を建設して外敵に備えた。
その後は中央アジアから西アジアにかけて遠征を重ね、かつてのモンゴル帝国の半分に匹敵する帝国を築き、中世アジアを代表する軍事的天才と評された。征服した都市で大規模な破壊と虐殺を行う一方、サマルカンドと故郷キシュでは建設事業を進めた。ペルシア語では「跛者のティムール」と呼ばれ、この渾名はヨーロッパにも広まってタメルランやタンバレインの名で知られる。ティムールは1405年2月18日に没し、およそ20年後にティムール朝で編纂された史書『ザファル・ナーマ』は、生前名乗らなかったハーガーンやスルターンの称号を彼に追贈している。
同じ年に亡くなった人物
- Jefimija (1405年)
- アル=ダミリ (1405年)
- マルグリット3世 (フランドル女伯) (1405年没)
- ミリツァ・フレベリャノヴィチ (1405年没)
- Saray Malik Katun (1405年没)
同じ地域に関係する人物
- イナルチュク (1219年没)
- アフマド・ヤサヴィー (1166年没)
- キュロス2世 (紀元前529年没)